其の壱拾の続き
■63年7月30日に58箇国の代表が集まって東京で開かれた、原水協主催の第10回「原水禁世界大会国際会議」の席上では、米国と「部分的核停条約」を締結したソ連代表団が集中的に非難されて袋叩きに遭ってしまいます。怒ったソ連代表は会議をボイコットして帰国。それ以前に社会党系の団体はこの世界大会に参加しておらず、互いに偽物呼ばわりをして関係の修復はされないまま、大会は「世界の人民が米国帝国主義と戦う事を要求」して終り、同日に開かれた第4回核禁国民大会の方では「中国、フランスが部分的核停条約に加盟を拒否しているのは遺憾である。両国が同条約に疑念を持つのは分かるが、その立場を容認する事は出来ない。特に隣国の中国の核武装阻止には全国民的努力を尽くす」というまったく傾向の異なるアピールが採択されています。
■8月3日の第10回「原水禁世界大会総会」は、東京と京都で形式的に挙行されますが、この運動は広島から明確な距離を置いた別の運動となって行き、現地の広島では同月5日に被災三県連主催の原水禁広島大会開会総会が開催されて「特定政党支持者が圧倒的に多い一方的集会」を嫌って、「原水禁運動の正統的基調に立ち、日本の原水禁運動を正常化する。私たちは一切の核兵器の製造、貯蔵、実験、使用、拡散を否定する。部分核停条約を全面核条約に進め、人類の平和共存を確保する。」との基調演説が行われました。8月9日の長崎での原水禁大会は、日本原水協系と被災三県連系とに分かれて二つの会場で開催されましたが、大会が終った後にも、正統性を争い互いに責任を押し付け合って分裂状態は修復されないまま、米国原潜の寄港問題が起こります。
■8月28日に、日本政府が米原潜の日本寄港を受諾した事から、同月31日にはソ連のブラウダ紙が「日本を報復攻撃の第一目標にしてしまう事を意味する。」と露骨な警告を表明すると、共産党系も社会党系も独自に反対運動を展開し始めますが、この運動だけで反核運動の統一を回復する事は不可能でした。そして、10月16日に中国が初の核実験に成功するのです。この大事件に対して、共産党系の広島原水協理事長は「日本人の立場として中国に抗議出来ないのを大変残念に思う。」と「良い核」の出現を受け容れて遠回しに歓迎しました。その他の諸団体は中国の核武装に抗議を表明しましたが、国際政治の力学は冷酷で、10月22日にはウ・タント国連事務総長が「核保有五箇国会議」開催を提唱します。これは核兵器の全面禁止を議題とする国際会議を緊急に開催すべきだと、タクラマカン砂漠のキノコ雲が消えない内に中国が世界に向けて発した要請に乗じた提案でした。
■核を開発した国は、自国が最後の核保有国になるという平和の祈りを捧げるのが習慣で、核武装が噂されているイスラエル以外の国は、今でもこの習慣を固く守って踏襲しています。この場合でも、前段の核武装を責めるよりも平和の甘い理想に幻惑された方が、当面は精神の安定を保つのには役立つので、裏切られる可能性には目を瞑って、共に国際会議を開催すべきだと主張して、何事かを語った心算になっていたのでした。しかし、それは知的な怠慢であり、立場によっては罪万死に値する愚行です。広島と長崎を知った者であれば、自由と民主主義を守る為に使用されようと、社会主義革命の実現を目的としようと、熱核兵器が発する業火の下で何が起こるかは知悉している筈だからです。自分のお気に入りの原爆銘柄を持っているような者が、平和を語るのは最も危険で罪深い事でしょう。
■11月2日の米国紙に、マクナマラ米国国防長官が寄稿しました。
「米国は核攻撃に生き残り、攻撃国を全滅出来る。米国はICBMを800発以上持つが、ソ連の数はその4分の1以下である。」
と述べ、その10日後に米国原潜シードラゴン号が佐世保に入港しました。そして、12月4日になって、日本政府は戦後の航空自衛隊の育成に感謝してカーチス・ルメー大将に勲一等旭日大綬章を贈るという大事件が起こります。この広島原爆投下作戦の指揮官を務めた人物に、国家の名誉を授与する事の意味を追及する声は上がらなかったようですが、正装した彼の胸には原爆投下の軍功を讃える米軍の勲章に並んで、日本国から贈られた勲章が飾られるという姿は醜悪です。因みに、このルメー大将は日本全土を焦土化する無差別絨毯爆撃を推奨して実行した人物です。
■分裂したままの原水協二派からこの叙勲に多少の疑義が出されたようですが、大きな反対運動は起こらず、この事件で原水爆禁止運動が実質的に破綻したと判断したのかどうかは分かりませんが、同月16日に安井郁日本原水協執行代表委員が辞意を表明します。
其の壱拾弐に続く
■63年7月30日に58箇国の代表が集まって東京で開かれた、原水協主催の第10回「原水禁世界大会国際会議」の席上では、米国と「部分的核停条約」を締結したソ連代表団が集中的に非難されて袋叩きに遭ってしまいます。怒ったソ連代表は会議をボイコットして帰国。それ以前に社会党系の団体はこの世界大会に参加しておらず、互いに偽物呼ばわりをして関係の修復はされないまま、大会は「世界の人民が米国帝国主義と戦う事を要求」して終り、同日に開かれた第4回核禁国民大会の方では「中国、フランスが部分的核停条約に加盟を拒否しているのは遺憾である。両国が同条約に疑念を持つのは分かるが、その立場を容認する事は出来ない。特に隣国の中国の核武装阻止には全国民的努力を尽くす」というまったく傾向の異なるアピールが採択されています。
■8月3日の第10回「原水禁世界大会総会」は、東京と京都で形式的に挙行されますが、この運動は広島から明確な距離を置いた別の運動となって行き、現地の広島では同月5日に被災三県連主催の原水禁広島大会開会総会が開催されて「特定政党支持者が圧倒的に多い一方的集会」を嫌って、「原水禁運動の正統的基調に立ち、日本の原水禁運動を正常化する。私たちは一切の核兵器の製造、貯蔵、実験、使用、拡散を否定する。部分核停条約を全面核条約に進め、人類の平和共存を確保する。」との基調演説が行われました。8月9日の長崎での原水禁大会は、日本原水協系と被災三県連系とに分かれて二つの会場で開催されましたが、大会が終った後にも、正統性を争い互いに責任を押し付け合って分裂状態は修復されないまま、米国原潜の寄港問題が起こります。
■8月28日に、日本政府が米原潜の日本寄港を受諾した事から、同月31日にはソ連のブラウダ紙が「日本を報復攻撃の第一目標にしてしまう事を意味する。」と露骨な警告を表明すると、共産党系も社会党系も独自に反対運動を展開し始めますが、この運動だけで反核運動の統一を回復する事は不可能でした。そして、10月16日に中国が初の核実験に成功するのです。この大事件に対して、共産党系の広島原水協理事長は「日本人の立場として中国に抗議出来ないのを大変残念に思う。」と「良い核」の出現を受け容れて遠回しに歓迎しました。その他の諸団体は中国の核武装に抗議を表明しましたが、国際政治の力学は冷酷で、10月22日にはウ・タント国連事務総長が「核保有五箇国会議」開催を提唱します。これは核兵器の全面禁止を議題とする国際会議を緊急に開催すべきだと、タクラマカン砂漠のキノコ雲が消えない内に中国が世界に向けて発した要請に乗じた提案でした。
■核を開発した国は、自国が最後の核保有国になるという平和の祈りを捧げるのが習慣で、核武装が噂されているイスラエル以外の国は、今でもこの習慣を固く守って踏襲しています。この場合でも、前段の核武装を責めるよりも平和の甘い理想に幻惑された方が、当面は精神の安定を保つのには役立つので、裏切られる可能性には目を瞑って、共に国際会議を開催すべきだと主張して、何事かを語った心算になっていたのでした。しかし、それは知的な怠慢であり、立場によっては罪万死に値する愚行です。広島と長崎を知った者であれば、自由と民主主義を守る為に使用されようと、社会主義革命の実現を目的としようと、熱核兵器が発する業火の下で何が起こるかは知悉している筈だからです。自分のお気に入りの原爆銘柄を持っているような者が、平和を語るのは最も危険で罪深い事でしょう。
■11月2日の米国紙に、マクナマラ米国国防長官が寄稿しました。
「米国は核攻撃に生き残り、攻撃国を全滅出来る。米国はICBMを800発以上持つが、ソ連の数はその4分の1以下である。」
と述べ、その10日後に米国原潜シードラゴン号が佐世保に入港しました。そして、12月4日になって、日本政府は戦後の航空自衛隊の育成に感謝してカーチス・ルメー大将に勲一等旭日大綬章を贈るという大事件が起こります。この広島原爆投下作戦の指揮官を務めた人物に、国家の名誉を授与する事の意味を追及する声は上がらなかったようですが、正装した彼の胸には原爆投下の軍功を讃える米軍の勲章に並んで、日本国から贈られた勲章が飾られるという姿は醜悪です。因みに、このルメー大将は日本全土を焦土化する無差別絨毯爆撃を推奨して実行した人物です。
■分裂したままの原水協二派からこの叙勲に多少の疑義が出されたようですが、大きな反対運動は起こらず、この事件で原水爆禁止運動が実質的に破綻したと判断したのかどうかは分かりませんが、同月16日に安井郁日本原水協執行代表委員が辞意を表明します。
其の壱拾弐に続く