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錯覚

※初めての方はこちら「プロローグ」「このblogの趣旨」からお読みください。

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先日、昨年末のブルータスで爆笑問題の太田光さんが推薦していたSF小説を読み終わりまして。


(  ̄Д ̄) 『「パイパンの幼女」という本です。』

ヾ(`Д´#)ノ″ 「“タイタンの妖女”ですっ!!」


(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
『タイタンの妖女』(- ようじょ、The Sirens of Titan)は、1959年に出版されたカート・ヴォネガットのSF小説。2冊目の小説にあたり、自由意志、全能、人類の歴史全体の目的といった問題についてを扱っている。

SF小説やアメリカ文学に疎い僕的には、その作品の古さも相まって、ちょっと読みづらい部分もありましたが、太田さんが絶賛していたのは頷けました。非常に面白かったです。非常に深いです。っつーか、相当ウンコクサイです、この小説。

このカート・ヴォネガットさんの作品群が、「抑制された独特の語り口で人類に対する絶望と皮肉と愛情をシニカルかつユーモラスに表現した作品」と紹介されているところを考えると、あー、きっと書きたいことの本質は、どの作品を取ってもこの作品と同じなんだろうなぁ、とか、この人は見えない側の世界が見えていた人なんだろうなぁと感じずにはいられません。

ご興味のある方は、是非ご一読を。


ってことで、今日はちょっと「見えない世界」のお話。(といっても、全然怪しい話ではありません。)


以前、「現象」と「本質」のお話をしたのを覚えていますでしょうか?

げんしょう【現象】(名)
1.人間が知覚することのできる全ての物事。自然界や人間界に形をとってあらわれたもの。「自然---」
2.表面だけのあらわれ。「---ばかりにとらわれるな」

ほんしつ【本質】(名)
物事の根本的な性質・要素。そのものの、本来の姿。「---に迫る」「---を見きわめる」

で、さらに、「現象」と「本質」は反対語。

つまりは、これを踏まえて考えると、「現象」という目に見える世界は、「本質」という見えない世界の対極にあるってことですよね。

でも、ついつい私たちは、「目に見える側の世界」が本質なのではないかと、「錯覚」してしまいます。

この錯覚の原因を辿っていくと、僕はどうも「形容詞」に問題があるんじゃないかと思うんです。


けいよう‐し【形容詞】(名)

1.国語の品詞の一。活用のある自立語で、文中において単独で述語になることができ、言い切りの形が口語では「い」、文語では「し」で終わるものをいう。「高い・高し」「うれしい・うれし」の類。事物の性質や状態などを表す語で、動詞・形容動詞とともに用言に属する。口語の形容詞は活用のしかたが「(かろ)・く(かっ)・い・い・けれ・〇」の一種であるが、文語の形容詞にはク活用・シク活用がある。

2.広く、物事の性質や状態を表す言葉。品詞論の「形容詞」に限らない。「保守的というのが彼らに冠せられる---だ」


「よい」「悪い」「うれしい」「悲しい」「楽しい」「苦しい」「新しい」「古い」「美しい」「醜い」「高い」「低い」「大きい」「小さい」などなど…

つまり、物事の性質・内容を修飾する言葉ですね。

物事の「質」を表しているのは、「形容詞」の方なんです。物事そのものじゃなく。


ここ、僕の言わんとしていること、分かります?


目に見える側の『現象』は、「形容される側」で、目に見えない側の『質(本質)』が「形容詞」。

で、その質を質として、そのように「形容している」のが『自分』なんです。 


これだと分かりづらいんで、一例を出します。

今、あなたがお使いになられている携帯電話。

それ、格好いいですか? それとも、格好悪いですか?


はい。この時の感想に現れる「格好いい」もしくは「格好悪い」が『形容詞』です。

で、形容されているのは『携帯電話』です。そう形容しているのは『あなた』です。


この場合、携帯電話は単に携帯電話です。

その携帯電話は、ある人が見たら格好いいし、別な人が見たら格好悪い。

あるいは、機種交換したての頃は、とても格好いいと感じていたのに、今となっては格好悪い、とか。

その「捉え方」は、人、時系列等によってまちまち。つまり『相対的・可変的』です。

でも、その「質」の側は、誰にとっても揺るがない『絶対的・不変的』なものなんです。

「格好いい」と思う「対象」は、人によってバラバラでも、「格好いい」という意味(その本質)は、誰にとっても共通しているんです。

ここ、分かります?

ある絵を見て、「美しい」と捉えるか「見窄らしい」と捉えるかは、人によってバラバラでも、「美しい」「見窄らしい」という『質の意味』は、誰にとっても共通しているんです。

この時、携帯電話や絵は「実在するもの」として目に見えても、その対象(携帯電話・絵)を差し引いて「格好いい」や「美しい」だけを見ることはできないんです。

でも、仮にその「対象」が無いとしても、私たちはその「格好いい」「美しい」などといった本質の存在・意味は、意識せずともしっかり理解出来ているわけです。


「質」は「現象」を通して感じられる。

また、この形容詞という代物は、その語尾を変えることで「よさ」「悪さ」「うれしさ」「悲しさ」「楽しさ」「苦しさ」「新しさ」「古さ」「美しさ」「醜さ」「高さ」「低さ」「大きさ」「小ささ」などといったように名詞化出来てしまうため、本来姿をなさないその質が、なにか物のように存在しているかのように感じられてしまう。

だからこそ、「目に見えるものが本質である」と、錯覚してしまう。


どうでしょう、見えるものと見えないものの関係、相対と絶対の関係、現象と本質の関係、ご理解いただけましたか?

うーん…やっぱりややこしいかなぁ…



←これを押すことが「よいこと」か「悪いこと」かは判断できなくても、「よい」「悪い」の意味そのものは理解できているはず。

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