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真贋

※初めての方はこちら「プロローグ」「このblogの趣旨」からお読みください。

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「騙された!」

「もう、何を信じていいのか分からない。」

「情報の真贋が分からない。」


昨今は、あちらこちらでそんな声が聞こえてきます。


そして人々は、ここぞとばかりに「もう嘘はつくな!」「発言に責任を持て!」「情報の公開を!」と、相手を責めたてる。

僕は、これ、何かおかしいと思うんです。


勿論、嘘をつくのは悪いことですよ。

僕が言いたいのはそういうことではなくて、事の真贋の見分けがつけられない自分の愚かさを棚に上げておいて、相手を責めてるだけでは、何も変わりはしないだろうと、そう思うのです。



これは、あくまで僕個人の経験を通した話ですので、全ての人に共通するという事ではないのかも知れませんが、僕達が受けてきた教育は「記憶力」が重要視されていたように思うのです。

国語・算数・理科・社会・英語、これらの科目が、図画・体育・音楽・道徳などよりも重要視されているのは、「より沢山の事を覚えていること」、「覚えたデータを効率的に活用できること」、そういった事が大切だとされている教育理念の表れではないでしょうか。

それらを用いて、「どう考えるか」ではなく、「どう活用するか」という教育。

「どう考えるか」と「どう活用するか」。

これは、似ているようで、全く違う。


例えば、

<考え方.その1>
今日はダメだったけど、明日はできるかもしれない。

<考え方.その2>
今日がダメだったから、明日もダメなはずだ。


ここに挙げた2つの考え方は、どちらも未来を作る上での「前提」となる考え方です。

「前提」となる点では同じですが、この2つには決定的な「考え方」の違いがあります。


<その1>は、「想像力(可能性)」を活用した考え方です。

<その2>は、「記憶力(データ)」を活用した考え方です。


この2つは、ものの見事に「シミュレーション」の方向が異なっているんです。

「未来」と言う字は、「未だ来ていない」と書きます。

「未知(未来)」なんだから、「記憶(過去)」だけでのシミュレーションが成り立つはずがないじゃないですか。

それなのに、「記憶力は大事なんだ!」と、そちらばかりを優先し、「想像力」を蔑ろにしまった教育…。



「想像力」は、何も無いところから考える事ができる力です。

「記憶力」は、「データ」を蓄積しておく力です。ですから、「データ」という「元」となるものが無ければ、考え出すことができない。

さらには、そのデータの活用さえ、「活用法(マニュアル)」として「データ化」されている時代。


情報の真贋を見分けるために、情報をかき集めるのはナンセンスです。(自分が「真贋を見分ける目」を持っていないかぎり、真贋を見分けるためにかき集めた情報の真贋もまた、見分けられないままなのですから。)

自分の力で、未来を「想像」する事ができたなら、情報に翻弄される事は、なくなるはず…


(  ̄Д ̄) 『…と、日々「パッケージに騙された!」とAV片手に吠えている黒斎が申しております。』


(-公-;) 「このオヤジは…余計な事を…」


←情報盛りだくさん。

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