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日本キリスト教 富 谷 教 会
週 報
年間標語 『日々聖霊に豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』
聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)
降誕節第2主日 年始礼拝 2016年1月3日(日) 5時~5時50分
礼 拝 順 序
司会 永井慎一兄
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 368(新しい年を迎えて)
交読詩篇 103(わたしの魂よ、主をたたえよ)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書 ヨハネによる福音書1章14~18節(新p.163)
説 教 「世に遣わされた神の子イエス」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 55(人となりたる神のことば)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 1月10日(日)午後5時~5時50分
聖書 ヨハネによる福音書1章29~34節
説教 「イエスの洗礼」
賛美歌(21) 368 358 24 交読詩篇 36
本日の聖書 ヨハネによる福音書1章14~18節
14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
15ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」16わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
17律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
18いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
本日の説教
ヨハネによる福音書は、「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった(1節)」で始まり、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた(14節)、それが「父のふところにいる独り子である神」、イエスであり、「この方が神を示されたのである(18節)」と続いていきます。
<初めに言があった>とは、天地創造の時、神が「光」あれと言われ、神の言葉によって天地創造が始まったと聖書は語ります。神の<言>はあらゆる被造物が造られるより先にあり、創造以前に存在していたと主張しているのです。そして<言>は被造物ではないので、神に属する存在であり、神が語りかけた時に神と共にあり、神と本質的に等しいと言っているのです。<言>は、神と共にあった独り子である神イエスであり、この方が人となった世に来られたイエスです。
新約聖書のコロサイの信徒への手紙1章15~16節には、次のように記されています。
「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるもも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。」
4節の「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」とは、被造物を造ったのが<言>であるから、それは新しい存在を生まれさせる命です。<言>は単なるコミュニケ―ション(思や感情、思考を伝達すること)の手段であるばかりでなく、神の意志であり、働きかけであり、命なのです。この命なしには人間は立ち得ません。なぜなら人間は被造物の内でも「神の像に似せて」造られた人格的存在であり、神の呼びかけに応答し、神からの愛を受け、神を信じ、信頼することなしには存在することが出来ないものだからです。
被造物が造られ前には、<地は混沌であって、闇が深淵の面にあり>(創世記1・2)と考えられていました。光が最初に造られたとき、それは暗黒の中で燦然と輝きました。つまり、<言>に命があり、それが光り輝いたのであれば、<言>が光として現れたと言ってもよいことになります。イエスは自らを<光>と呼んでいます(8・12)。しかし、暗黒は光と対立するものとして捉えられ、イエスを拒むこの世とその代表者たちを指す言葉となています。
このように、創世記の天地創造との関係で1~5節が記されているのは、この福音書が第二の創造について記そうとしているからです。第一の創造の時に働いた<言>が、今度は肉となり地上において人間をその罪から救い出すために十字架にかかり、第二の創造、すわち救済の秩序をもたらしたということを言おうとしているのです。
6節~8節は、この光としての<言>の働きについての証言者としてヨハネが紹介されています。この福音書では、「洗礼者」としてではなく、教会の証言者として描かれています。<彼は光ではなく、光について証しするあめに来た>と語られています。
9節~13節では、イエスの到来と、イエスの同胞ユダヤ人による拒否と受難とが短く語られています。しかし、それにもかかわらず少数のイエスを信じる者が与えられますが、それは「言を受け入れる」ところに成立し、その名を信じた人々によります。この人々はイスラエルの血統や自我の宗教的願望によるのではなく、神によって可能であることが言われています。
「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」(ヘブライ11・2)、とあります。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです(ローマ10・17)。「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。(エフェソ2・8)」「聖霊によらなければ、だえも『イエスは主である』とは言えないのです(ローマ12・3)。」
今日の聖書の箇所、14節~18節は、5節からの続きで、<言>が人間の肉体となって世に現れたことが語られ、それがナザレ人イエスであることが語られます。
14節、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
<言は肉となった>とは、「言は世に来た」(9節)をさらに具体的に強調した表現です。<肉となった>とは、人間になったということです。<宿った>とは、「住んだ」という意味です。「天幕を張って住んだ」というということを表現しています。
ユダヤ人にとって、神は人ではなく、高いところにいる見えない神であり、見える神はすべて偶像として厳しく排斥しました。この表現は伝統的宗教に生きるユダヤ人に向けられた大胆な宣言でした。
この世に現れた<言>は、<父の独り子>であり、天地創造の時に<言>が神の傍らにおられたことから、神にのみ帰せられる栄光をも共有していたことが語られています。
その栄光がイエスにおいて明らかにされるのは十字架に上げられる時であり、また死人のうちより上げられる時であり、また終末の時に明らかにされる栄光です。この独り子の内に神の不変の愛と神に属する究極的な真理が満ちています。神はモーセに現れたとき、「主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾世代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」と宣言しています。その恵みとまこと(真理)が、父なる神の独り子イエスに充ち溢れているのです。
15節、ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」と。
16節、わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けました。
17節、律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからです。
18節、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
天地の創造主なる神は、被造物を超越した、人間が見ことも触れることもできない存在の方です。その神か
父なる神の創造に際して、キリストは仲保者として重要な役割を果たされ方です。創造者なる神は同時に救済者なる神でもあります。
キリストはすべての人に命を与える方となり、人の光となられました。イエス・キリストの生涯、特に十字架の死は、人生の苦難に打ちひしがれ望みを失っている者に大きな力と望みとを与え、死の恐怖に陥って人々に喜びと平安とをもたらしました。ここにイエスの救済者としての働きが成し遂げられたのです。この救済の業をなさったイエス・キリストが初めに父なる神との創造の業に参加されたことは、この救済の業が創造の業と別のものでなく、」その継続また完成」であることを、ヨハネ福音書は伝えているのです。
<めぐみとまことに満ちた、父のひとり子なる栄光>は、イスラエルの民が想像した黄金に輝くエルサレムではなく、自然的人間の目には、どうしても見い出せない栄光であり、それはひたすら父なる神のみ旨を行う苦難の僕イエスの中にある神の栄光でした。神の子としてのキリストの姿は、その僕の姿の中に包まれ、隠されていました。それを見るためには、人間の肉眼以上の眼が、信仰の眼が必要なのです。<わたしたちはその栄光を見た>とは、肉の眼で見たのではなく、信じて見たということです。
<言>である神が、人間となられたということは、どのような意味が含まれているのでしょうか。
わたしたち人間は、肉体を持つ存在であるという点で、もろもろの誘惑にさらされているばかりでなく、<肉>はまさに「罪」の宿る拠点でもあります。さらにまた肉体は、「死」という絶対に回避できない宿命を負わされています。<言>なる神が肉体となり給うたということは、人間を支配している「罪」と「死」の領域の真っただ中に、自ら身を投じたということであり、われわれと完全な連帯関係に入り給うた、ということに他なりません。神が独り子を与えるほど世を愛された神の愛、イエスにおいて顕された神の愛は、「世の罪を取り除く」(1・20)贖い主となり、独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るため」(3・16)でした。神の独り子が私共の身代わりになって死ぬほど、私共は神様に愛されているのです。ですから、この十字架にこそ神の独り子の栄光は現れているのであり、その栄光は恵みと真理とに満ちているのです。キリスト・イエスに現れた神の栄光は、私共を造り、支え、導くと共に、何よりも私共を一切の罪から救い出してくださる、神の恵みに満ちたものなのです。
今年の年間標語は、「日々聖霊を豊かに受けて、神の栄光を表す人になろう。」です。
聖句は、「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義と され、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)
神の救いは、聖霊によってわたしたちを新たに生まれさせ、新たに造りかえることを通して実現したのです。キリスト教の説く福音の恵みは、聖霊の働きによって日々新たに造り変えていただき、神のみこころに適う人になることができることです。神を愛し、人を愛する人にしていただき、神の栄光を表す人になりましょう。
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