富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「マグダラのマリアに現れた復活のイエス」 ヨハネによる福音書20章1~18節

2019-04-18 11:52:16 | 説教

   ↑ 【レンブラント】  ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな)

       1638年 61 x 49,5 cm バッキンガム宮王室コレクション ロンドン

 981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

    日本キリスト教 富 谷 教 会

          週    報

 年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

 聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

  復活節第1主日  2016年3月27日(日) 午後5時~5時50分

 

   礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 204(よろこびの日よ)

交読詩篇   30(主よ、あなたをあがめます)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

共同訳聖書 ヨハネによる福音書20章1~18節(新p.209)

説  教   「マグダラのマリアに現れた復活のいえす」 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 325(キリスト・イエスは)

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

   本日の聖書 ヨハネによる福音書20章1~18節

   1週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」3そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。4二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。5身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。6続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。7イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。8それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。9イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。10それから、この弟子たちは家に帰って行った。

  11マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 20:13天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」14こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。15イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。17イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

           本日の説教

     過越祭の準備の日(他の福音書では過越祭の日、どちらも金曜日)、主イエスはゴルゴタ(「されこうべの場所」の意味)で十字架につけられました。そこはエルサレムの都に近い場所でした。イエスの十字架のそばに、イエスの母マリアと母の姉妹と、クロパの妻マリアと、マグダラのマリアが立っていました。(この後、主の母マリアはヨハネの家に引き取られます。)午後3時頃、イエスは息を引き取られました。

    <マグダラのマリア>は、イエスに「七つの悪霊を追い出していただいた婦人」(ルカ8・2)です。彼女はガリラヤ湖西岸の町マグダラ出身の女性です。「七つの悪霊」とは神経系の病気と思われます。当時の人々は目に見えない悪霊が存在して、それが人の精神を乱したり、種々の病気を起こすと信じていました。彼女はひどい心霊的苦悩からイエスによって救い出されたのです。このマリアを、ルカ7章3節にある「罪深い女」と同一視する説がありますが、その根拠は聖書にはありません。マリアは「罪深い女」でも、娼婦でもありません。カトリックの公会議も1969年にマグダラのマリアを「罪深い女」から区別すことを明確にしました。最近では「身分の高い女性」との認識に変わりつつあります。イエスに悪霊を追い出して病気をいやしていただいた婦人たちの中には、ヘロデ王の家令クザの妻ヨハナのような貴婦人もいました。彼女たちは自分たちの物を持ち出し合って、イエスの一行に奉仕していました。

      マリアは病気をいやしていただいたことに感謝し、イエスを慕い愛しました。イエスに付き従って行動を共にしたことは自然なことです。彼女のイエスに対する献身と奉仕が誰よりも熱く、イエスも彼女を愛して親しくされたことは、イエスの周囲の女性たちが言及されるときはいつも彼女の名が最初にあげられることからもうかがわれます。

     イエスが十字架につけられた日(金曜日)の日没から、ユダヤでは安息日に入ります。過越祭の特別な安息日です。この安息日になる前に、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身の「身分の高い議員」(マルコ15・43)ヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ローマから派遣されている総督ピラトに勇気を出して願い出て許されました。ヨセフはゴルゴタに行って遺体を取り降ろしました。そこへ、かつてある夜、イエスに会ったことのある「ファリサイ派に属する議員」(3・1~15)であるニコデモが、没薬と沈香を混ぜた物を持って来たので、二人はイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布に包みました。

     イエスが十字架につけられた所には園があり、そこにはだれも葬られたことのない新しい岩を掘って作った墓がありました。この墓が近かったので、そこにイエスを納め、墓の入り口には大きな石を転がして入り口をふさぎました。それは日没前に急いでなされた仮埋葬でした。マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていました(マルコ15・47)。

     マリアは翌日(土曜日)の夕方、安息日が終わるのを待って、イエスに油を塗りに行くために香料を買っておきました(マルコ16・1)。

     週の初めの日、日曜日の朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは、「用意しておいた香料を携えて」(ルカ24・1)墓に行きました。他の福音書では、マリアは数人の女性と共に墓に行ったと記していますが、ヨハネ福音書はマグダラのマリアが一人で行ったように記し、マリア一人に焦点を当てています。マリアは墓の入り口から石が取りのけてあるのを見ました。マリアは誰かが墓に入って、イエスの遺体を運び去ったと思ってしまいます。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子(「ヨハネ福音書を書いた弟子」19・26)のところへ走って行って彼らに告げました。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」と伝えました。

     そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行きました。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着きました。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてありました。しかし、彼は中には入りませんでした。続いて、シモン・ペトロも着きました。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見ました。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所にはなく、離れた所に丸めてありました。遺体を盗むのであれば亜麻布で包んだままで運ぶはずです。丁重に亜麻布が解かれているのは、イエスの身体がこの場所から出て行ったことを物語っています。それは、イエスの死体が決して盗まれたのではないということの証しになっています。先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じました。彼は、遺体がないのを見て、イエスが復活されたことを信じます。しかしまだ浅い信仰です。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉と結びつけて理解することが、二人はまだ出来ていませんでした。それから、この弟子たちは家に帰って行きました。おそらく、彼らは「不思議に思いながら家に帰って行きました」(ルカ24・12)。

     マリアは二人の弟子が家に帰った後も、墓の外に残って立ち、泣いていました。マリアはその場を立ち去ることも出来ずにいました。彼女は遺体が見つからないことにあきらめきれず、泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えました。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていました。しかしマリアはそれが天使であるとは気付かなったようです。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と言いました。マリアは、大切な主の遺体がどこかに移されて、見失ってしまった悲しみを訴えます。マリアがいかにイエスを慕い愛していたか、その深い心情が、この言葉に込められています。

     こう言いながら、人の気配を感じたのか、マリアは後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えました。しかし、それがイエスだとは分かりませんでした。イエスは「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と言われました。マリアは、園丁(墓園の管理人)だと思って、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と言いました。マリアとしてはせめてもイエスの遺体にもう一度丁寧に油を塗って、正式に埋葬したいと願っていたのでしょう。

    

  コレッジョ「ノリ・メ・タンゲレ」   1524 プラド美術館       マドリード 1518-1524年頃 130×103cm

   イエスが、「マリア(ヘブライ語で<ミリアム>)」と言われると、彼女は振り向いて、自分の名を呼んだ方に、思わずヘブライ語で、「ラボニ」と呼びます。マリアは師であるイエスを呼ぶときにいつも用いていた呼び名です。このとき思わずその呼び名が口をついて出たのです。ラボニとは「(わたしの)先生」という意味です。これはマリアの素直な喜びの表現です。復活のキリストを目の当たりにしながらそれと気付かなかったマリアも、自分の名を呼ばれて、初めて霊の目が開かれたのです。

     嬉しさのあまり、マリアは思わずイエスにすがりつこうとしました。そのマリアに、イエスは「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われました。その理由として「まだ父のもとへ上っていないのだから」と言われました。復活したイエスは生前のイエスが現れたのではありません。イエスは地上の体ではなく、天の父なる神のもとへ上る霊の体となっています。おそらくマリアは、生前のイエスに対するのと同じ思いでイエスにすがりつこうとしたのです。しかし、イエスのこの拒否の言葉を聞き、マリアは死の支配に打ち勝たれた復活の主を見ました。イエスはマリアに、「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」言いなさいと、伝言を託しました。

    キリストが弟子たちをさして<わたしの兄弟たち>と言い、神はわたしの父であって、またあなたがたの父でもあると言われました。イエスはこれから父のみもとに上られることによって、イエスと弟子たちとは、地上のイエスと弟子たちとの関係以上に、共通の絆によって深く結びつくことを告げたのです。

     マグダラのマリアは、イエスを失って失望の底にいた弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げました。そして、主から言われたことを伝えました。マグダラのマリアは復活されたイエスの最初の証人とされました。女性の証言する能力を認めなかった当時としてはおどろくべきことでした。

     復活したイエスと出会う前、マリアが見ていた墓は死者の世界、死の支配する領域でした。そこにイエスの死体を探し求めていました。愛し、慕っていたイエスとの結びつきは、イエスの死によって引き裂かれ、自分自身も生ける屍のような状況にありました。せめてイエスの死体を手厚く葬りたいと思っていました。しかし、そのご遺体も見い出せない彼女はどんなに傷心したことでしょう。

   東日本大震災による死者数は15894人、その内、まだ行方不明の方は2561人もおられます。ご遺族の方々のご心境が偲ばれ、心が痛みます

    マグダラのマリアは復活したイエスと出会うことによって、絶望から希望へ、悲しみから喜びへ、死と滅びの世界から生命の支配へ、愛と信頼へと変えられました。

   イエス・キリストは復活しました。父なる神によって、陰府(よみ)の世界から復活させられました。主イエスは死に勝たれました。主は、わたしたちに復活の命に生きる希望を与えてくださいます。永遠の命に生かされている保証として、聖霊を与えてくださいます。この神の恵みにあずかろうではありませんか。

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1 コメント

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待ってます。 (星野)
2016-04-03 00:43:40
4月3日の説教を待っています。

ソウルからも期待しております。

星野。
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