富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「飲食について、兄弟を裁いてはならない」ローマの信徒への手紙14章1~23節

2016-07-16 15:25:59 | 説教

        981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12   TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

              日本キリスト教 富 谷 教 会

                   週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

    聖霊降臨節第10主日    2016年7月17日(日)    午後5時~5時50分

       礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21)  56(主よ、いのちのパンをさき)

交読詩編   68(神は立ち上がり、敵を散らされる)  

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  ローマの信徒への手紙14章1~23節(新p.294)

説  教  「飲食について、兄弟を裁いてはならない」 辺見宗邦牧師

 祈 祷

讃美歌(21) 500(神よ、みまえに)

聖餐式    72(まごこころもて)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

               次週礼拝 7月24日(日) 午後5時~5時50分

               聖書 コリントの信徒への手紙一、11章23~39節

               説教   「聖餐」

               讃美歌(21)77 81 24 交読詩編78篇

  本日の聖書 ローマの信徒への手紙14章1~23節

 1信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。2何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。3食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。4他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。5ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。6特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。7わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。8わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。9キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。10それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。11こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」12それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。13従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。14それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。15あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。16ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。17神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。18このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。19だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。20食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。21肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。22あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。23疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。

    本日の説教

   パウロの書いた手紙は新約聖書中に十三通あり、新約聖書全体の三分の一強を占めています。その十三の手紙のうちで最も重要な、また有名なのが、「ローマの信徒への手紙」です。それはパウロの神学的な思想が組織を立てて堂々と述べられているからです。この手紙が書かれたのは、彼の宣教活動の最後期に属する紀元56年頃、ギリシャのコリントに三か月間滞在していた時であろうと推定されています。パウロはローマの信徒とはほとんど面識がありません。ローマの信徒の集会は、おそらく最初はローマ在住のユダヤ人の間にもたらされたキリスト教が次第に異邦人に及び、パウロの手紙執筆時には異邦人を主体にして成立していたと思われます。このような未知の教会に手紙を書いた動機は、この未知の教会を訪問するに先立って、自己紹介をすることにあったと思われます。パウロはこの手紙で自己の福音理解を整理して述べたのです。パウロは、福音の中心を<人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による>(3・28)という「信仰義認」においています。

   14章1節からは、パウロはまだ知らない教会に対して、予想される具体的な問題、特に人間関係における問題を取り上げます。信仰の強い人の立場に立って、信仰の強い人たちに対し、<信仰の弱い人>を受け入れなさいと勧めています。<信仰の強い人>とは、<何を食べてもよいと信じている人>です。それに対して、ここで述べられている<信仰の弱い人>とは、<野菜だけを食べている人>です。<信仰の弱い人>を<受け入れなさい>というパウロの勧告は、単にその人たちを配慮し、教え導きなさいということではなく、その人たちの生活習慣に根ざす信念を理解せずに、その人たちをさばき、切り捨ててはならないということです。<信仰の弱い人>は、信念や確信に欠ける人ではなく、むしろ逆で、自分の従来からの生活信条に囚われてそこから自由になることのできない人です。ここでは強い者の弱い者への配慮が問題にされています。

 食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は食べる人を裁いてはならないのです。神はそれぞれをしっかりと受け入れて下さっておられる。一体、他人の僕(召し使い)を主人顔をしてさばく権利はあなたにあるのですか。かれが立つか倒れるかはその主人次第なのです。かれは主人によって立つものとなるのです。主は、その人を立たせることがおできになるからです。両者とも同じ信仰者なのです。<神はこのような人をも受け入れられた>ということから相互の交わりを始めるべきだと説いています。

 次に、日の問題に入って行きます。<特定の日を重んじる人>とは、悪霊などによる影響を恐れて、日の良し悪しにこだわる人々や、安息日やユダヤ教の祝祭日を守るユダヤ人キリスト教徒のことを言っているようですが、パウロは、彼らの態度の良し悪しを問わずに、彼らが<主のため>にそのようにしていると解釈しています。ある人は、この日がかの日よりよりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。それは、各自が自分の心の確信に基づいてきめるべきことです。特定の日を重んじる人は主のために重んじているのです。日を重んじる人も重んじない人も、主のためにそうしているのです。

わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。

 わたしたちが主のもの、主に属するものとされたのは、キリストの十字架のあがないの死を遂げられ、復活して父なる神の右に座し、全権を委ねられ、世界の主として統治なさるからです。イエスを信じる者は、罪を赦され、神の子とされ、神との交わりの中に入れられ、聖霊を与えられて、罪と死を克服する復活の命と力にあずかり、永遠の命に生きる主のもの、主に属するものとされているのです。

 10節では、再び<兄弟を裁き>、<兄弟を侮る>のは、自分の判断が他の人間の判断する基準であると主張することなのだと諭します。しかし、神こそがすべての判断の基準なのです。自分の判断を基準とする者は、自分を裁判官の席に座らせることになります。しかし実際は、自分たちこそ<神の裁きの座に立つ>のです。互いに受け入れ、裁き合ってはならないという勧告は、神こそが裁き主であるという賛美となります。「「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」(14・11)これはイザヤ書49・18と45・23からの引用による礼拝における賛美です。

 パウロは、<信仰の弱い人>に対するこれまでの議論に<もう互いに裁き合わないようにしよう>と結論を下します。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい、と勧めます。同信の兄弟として共に生きることが大切なのです。「強い者」は「弱い者」に強さを強要するのではなく、その「強さ」によってむしろ配慮することが必要なのです。

 パウロは、強い者の立場に同意しながら、「弱い者」の問題点を指摘します。<それ自体で汚れたものは何もない>と断定し、それは個人的・主観的なものであると言います。<汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです>と、個人の主観的判断には踏み入りません。「強いもの」の確信は、「弱いもの」の信念を侵すことは許されません。自己の<確信>は相手の思うところを裁くのではなく、認めることです。

 「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。」(14・15~16)

 「強い者」が、兄弟の心の痛みを理解せず、信仰が弱いための自業自得であると見捨てるような態度は<愛に従って歩んでい>るとは言えません。キリストはこの弱い<兄弟のために死んでくださった>のだからです。パウロは<あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい>と勧告します。<そしり>は、教会の外から教会に対して向けられる非難を指します。<神の国は言葉ではなく力にある>(コリント一、4・20)と語ったパウロは、ここでは<神の国は飲食ではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜び>であると語ります。自分を喜ばせることではなく、神に喜ばれること、また、自分の義や自分の平安ではなく人々の信頼を得ることが、信仰者の基本的姿勢なのです。

パウロは<肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい>と「強い者」のとるべき態度を語ります。自分の信念を忠実に、確信を持って行動すべきです。他人の行動に気を取られて、動揺したり軽蔑したりすることは正しくありません。確信のない行動は信仰者のとるべき態度ではありません。

 ここには、やはりパウロが、ローマ教会をつまらない事で波風を立たせず、穏便に治め、教会の一致を守って行こうとする姿勢がよくあらわれています。教会の中で信仰の中心にかかわることでなければ、こうでなければならないという人と、そのような固定観念にとらわれない人とが相互に認め合っていくべきであるというのです。

 日本の教会には、アメリカから持ち込まれた清教徒(ピューリタン)信仰が伝えられ、謹厳で潔癖な宣教師たちは禁酒・禁煙を重んじたので、教会の敷居は高いものになり、庶民から孤立しました。韓国のキリスト教会では、禁酒を重んじる傾向があり、ある牧師は信徒の前では飲酒を控えていると語っています。つまずきを与えないように配慮しているのです。

   しかし、ものみの塔(エホバの証人)、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)、セブンスデー・アドベンティスト、世界平和統一家庭連合(旧:統一教会)等のキリスト教の異端と言われている教会は、種々の戒律を定めています。その戒律を救いに不可欠としているので、これを認めることはできません。これは信仰の中心にかかわることだからです。信仰の中心にかかわることでなければ、私たちは、どのような異なる意見や、信仰の持ち方が異なっていても、互いに受け入れることができます。互いに愛し合って、互いに霊的に成長することができるのです。

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