富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「ヨエルの預言『神の霊の降臨』とペトロの説教」 ヨエル書3章1-2節

2014-08-03 14:22:22 | 礼拝説教

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富谷教会 週報

聖霊降臨節第九主日   2014年8月3日(日)    5時~5時50分 

                礼   拝    

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 476(あめなるよろこび)  

交読詩編   92(いかに楽しいことでしょう) 

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   ヨエル書3章1~2節

説 教  「ヨエルの『神の霊の降臨』の預言と、ぺトロの説教」   辺見宗邦牧師

賛美歌(21)355(主をほめよ、わが心)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)    24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

 次週礼拝 8月10日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分

 説教題   「エレミヤの召命」    聖 書  エレミヤ書1章1~19節

 交読詩篇 21  讃美歌(21)(旧)12 556 24

        本日の聖書 ヨエル書3章1~2節

 1その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。
 2その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。
  3天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。4主の日、大いなる恐るべき日が来る前に太陽は闇に、月は血に変わる。5しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように、シオンの山、エルサレムには逃れ場があり、主が呼ばれる残りの者はそこにいる。
       本日の説教

  旧約聖書中のヨエル書の配列は、ホセア書とアモス書の間にあります。アモス書5章18~20節にも、主の日の到来という、ヨエル書と同じテーマを扱っていることから考えられた配列かとも思われます。しかし、ヨエル書はオバデヤ書やマラキ書の影響が認められ、捕囚後の第二神殿完成(B.C.515年)後のエルサレムが時代背景として考えられるので、おそらくヨエルが活動したのは、紀元前450年から400年頃と思われています。

  プロテスタント教会で用いられている旧約聖書の39書は、ユダヤ教のヘブライ語聖書(マソラ本文)によるものですが、各書の配列の順序は、ラテン語訳ウルガタ聖書に準じたものです。預言書について言えば、イザヤ書から始まる大預言書に始まり、十二預言書が続きます。それは分量の大小でそう呼ばれているだけで、内容の重要度の差によるものではありません。それらはかならずしも、年代順によったものではありません。

  預言書を残した預言者を、年代順に並べると以下のようになります。

   アモス(北 753~)、ホセア(北 750~720)、イザヤ(南 719~734)、ミカ(南 738~)、ヨナ(創作、題材は8世紀頃、書かれたのは334年以後のヘレニズム時代?)、ゼファニヤ(南 644~)、エレミヤ(南 627~)、ナホム(南 622~)、ハバクク(南 606~)、エゼキエル(捕 593~570)、オバデヤ(南 587~)、ダニエル(捕 550~)、[第二イザヤ(捕 545頃~)第三イザヤ(エ 535頃~)]、ハガイ(エ 500~)、ゼカリヤ(エ 500~)、マラキ(エ4 65~)、ヨエル(エ 450~400)の順になります

  【預言者の活動年は、新共同訳旧約聖書注解を参考にしました。年号は紀元前です。北,は北王国で活動した預言者。南,は南王国で活動した預言者。捕,は捕囚地バビロンで活動した預言者。エ,は捕囚以後、エルサレムで活動した預言者。】

  預言者ヨエル(「主=ヤハウェは神である」という意味)は、「ぺトエルの子」(ヨエル1:1)と記されているだけです。ヨエルの関心は王や為政者の政治より、エルサレムを中心とした祭司、神殿の礼拝などに集中しています。

  4章からなるヨエル書は、概略すると、次のような内容になります。 

 ヨエル書は1章では、いなごの大群の来襲と干ばつで、農作物に前代未聞の災害をもたらし、国土は荒廃しました。それは恐るべき「主の日」が近づく前兆であると予言します。主に向かって嘆きの叫びをあげよ、とユダとエルサレムの人々に説きます。

   【わたしたちは、自然災害をただちに神の裁きと決めて、悔い改めを迫るような短絡的な捉え方をすべきではありません。わたしたちは旧約の時代に生きているのではありません。神の御子、イエス・キリストがこの世に来られ、わたしたちの罪をすべて背負い贖いの十字架の死を受けられ、罪と死から解き放ってくださるために、死からよみがえってくださったのです。キリストはわたしたちを愛し、わたしたちと共におられるのです。すべての艱難を、信仰の試練として受け取ることのできる、新約の時代に生きているのです。自然災害と神の裁きとして安易に結びつけることは、深い神の御心を無視することになるのです。この世には滅びにいざなう闇の力があります。悪への誘惑があります。破壊の力、色々の危険や脅かしは絶え間なく襲ってきます。主イエスはこう語っています。「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世にかっている」コリントの信徒への手紙1、16章33節】

 2章の預言は、主の怒りの日に、町を侵略する軍隊の描写が描かれます。いなごの大群を指していると思われます。預言者は「主に立ち帰れ」と、祭司と民に、断食と悔い改めを求めます。「主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く慈しみに富み、くだした災いを悔いられるからだ」と説きます。神の慈しみが示され、神の裁きは撤回され、いなごの災害は過ぎ去り、収穫は約束されます。再び喜びが回復します。

  3章では、その後、神の霊が注がれ、終末の主の日に伴う不思議な天体のしるしが伴い、「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」という預言がなされます。

  4章では、聖戦が呼び掛けられ、諸国民の裁きが行われます。【この記述には、民族主義的な、好戦的報復感情が込められているのは否めません。】主の介入によって、ユダとエルサエムは回復し、シオンにおける神の住まいがとこしえに続く主の日の勝利を予告します。ヨエル書の中心となる主題は「主の日」です。彼にとってこの日は、審判と救い(回復)の日でした。

   ヨエル書3章1~2節は、聖霊降臨の日、ペトロが、説教で引用した聖句です。

 「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」
」(ヨエル書3:1~2)

  「その後」とは、1章で描写されたいなごの災害の後の回復の時、2章18~27節に約束された祝福が成就された時を指しています。ヨエルは、「その後」、聖霊降臨が生じ、人々が、神の言葉、すなわち、福音を聞いて救われる恵みの時代がくることを予言しました。

  「わが霊」とは、神の息であり、神の力です。ここでは神が人の命を支え、歴史の中で力強い業を行い、救いを与えることです。それは神が共に生きるということです。

旧約聖書の伝統の中では、神の霊は、神の特別な選びと好意を受けた者だけ注がれるものでした。例えば王や士師、預言者でした。ところが、預言者ヨエルはそれが全ての人に対して起こると言っています。「すべての人」とは、ヨエル書では全人類、全世界の意味ではなく、イスラエルの民のすべての人です。

  「息子や娘」、すなわち、男女の性別にかかわりなく、聖霊は与えられて、人は預言をする。また、「奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」すなわち、社会の階級や立場にかかわりなく、社会の最下層の男の奴隷、女の奴隷も、聖霊を与えられる、という預言です。

  旧約聖書中、神は御自身を啓示するとき、夢を用いられる時もあれば、幻を用いる場合もあります。「聞け、わたしの言葉を。あなたたちの間に預言者がいれば、主なるわたしは幻によって自らを示し、夢によって彼に語る。」(民数記12:6)とあります。

   夢は睡眠時に、一連のまとまった出来事として受ける啓示であり、幻は通常の意識とは異なった意識状態のときに受ける啓示です。その優劣はありません。

    ヤコブは青年のとき、幻によってではなく、夢によって、天まで達する階段を見ました。そして主が傍らに立って、「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地へ連れ帰る。わたしは約束したことを果たすまで決して見捨てない」という主のことばを眠りの中で聞きました。(創世28~22)                                      ヤコブは老年になったとき、夜、夢ではなく、幻の中で神が「ヤコブ、ヤコブ」と呼びかける声を聞きました。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトヘ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。」(創世記46:2~4)

     ペトロは、次のように語ります。

  「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。(使徒言行録2:17~18)

    「その後」が、「終わりの時に」にとなっています。聖霊の注ぎによって教会が誕生する「終わりの時」です。聖霊降臨の日に与えられた聖霊は、かつて臆病であった弟子たちに命を吹きいれ、大胆に語ることの出来る賜物を持った人間に創造しました。聖霊は福音を証言する力であり、教会を全世界へ押し出す力であり、教会に引き付ける力であり、教会に聞く価値のあることを語らしめる力なのです。

  パウロは夜、一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けて下さい」(使徒言行録16:9,10)と言って願った幻を見ました。これがヨーロッパ伝道の機縁となったのです。「私には夢がある」と言ったマーティン・ルーサー・キング牧師は、「いつの日か谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くし険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見るだろう。」(イザヤ書40・4~5)のみ言葉を信じ、人種差別のないアメリカ国家の実現を夢見たのです。

   ペトロは、イスラエルの人々に向かって、「イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」と言って、イスラエルの人々に限定されない、すべての人に与えられるものであると言っています。

  「天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。主の日、大いなる恐るべき日が来る前に太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように、シオンの山、エルサレムには逃れ場があり、主が呼ばれる残りの者はそこにいる。」(ヨエル書4:3~5)
 3節と4節は、世の終わりの最後の審判が来るとき、その前兆(しるし)が、天にも地にも自然界に異変、災害が現われることを教えています。しかし、その前に、聖霊が豊かに注がれて、人が、神の言葉を語る時代が来るので、神の言葉を聞いて、神を信じ、「主の御名を呼ぶ者」は、裁きの試練の中で避難所を見出し、救われる。このようにして、最後のときに、エルサレムは選びの場としての神の永遠の都となる、とヨエルは預言しました。

  ペトロは、ヨエルの預言を次のように引用しました。    

  「すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(使徒言行録2:19~21)

   ペトロの説教では、「エルサレムには逃れ場がある」という表現はありません。天上の都こそ永遠の都なのです。ペトロは「主の名を呼び求める者は皆、救われる」と締めくくります。その主とは、私たちのために十字架にかかり、三日目に復活し、天に昇って父なる神の右に座しておられるイエス・キリストです。私たちも、その主の名を呼び求めることによって救われ、喜びと希望を与えられて生きています。その喜びと希望は、この世の人生を支え導くのみでなく、肉体の死を越えた彼方にまで及ぶものです。

 

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