富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「天のエルサレムを目指して」 ヘブライ人への手紙12章18~29節

2016-06-11 23:53:01 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

   日本キリスト教 富 谷 教 会

     週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

   聖霊降臨節第5主日       2016年6月12日)   午後5時~550

    礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 498(道、真理、命)

交読詩篇   84(万軍の主よ)  

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   ヘブライ人への手紙12章18~29節(新p.)

説  教  「天のエルサレムを目指して」 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 579(主を仰ぎ見れば)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

                                                     次週礼拝 6月19日(日) 午後5時~5時50分

                                                     聖書 エフェソの信徒への手紙2章11~22節

                                                     説教    「異邦人の救い」

                                                     賛美歌(21)405 402 24 交読詩編 126篇1~6節

              本日の聖書 ヘブライ人への手紙12章18~29節

 18-19あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。20彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。 21また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。22しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、23天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、 24新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。25あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。26あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」27この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。28このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。29実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。

             本日の説教

   ヘブライ人への手紙は、宗教改革以前はパウロの著作とみなされていましたが、現在では、バルナバ(キプロス島出身のユダヤ人)やアポロ(アレキサンドリア出身のユダヤ人)といった人物が著者として支持されています。著者はテモテを知っている(13・23)、第二世代のキリスト者であり、ステファノやフィリポたちの立場を受け継ぐ人物です。

   受信者はヘブライ人とありますが、必ずしもユダヤ人に限られず、13・24の<イタリア出身の人たち>という句はイタリアないしローマを予想させます。迫害に際しての忍耐をすすめている点などから、離散したユダヤ人がいるローマの教会が予想されます。

   この文書は手紙とされていますが、手紙につきものの最初の挨拶がなく、13・22以下の終わりの挨拶部分は、後から特定の教会に送るために付加されたもので、手紙というよりも、著者によってなされた幾つかの説教を文書の形にまとめたものです。執筆年代は80~90年頃と予想されます。

   ヘブライ人への手紙は、最後の添え書きを別にすると、三つの主要な勧告(説教)から成り立っています。第一部は「神の言葉に聞き従おう」(1・1~4・13)、第二部は「信仰告白をしっかり守り礼拝に励もう」(4・14~10・31)、第三部は「イエスを仰ぎ見つつ忍耐をもって走り抜こう」(10・32~13.21)です。

   今日の聖書の箇所では、第三部に属します。12章の18節~24節は、古い契約が与えられた山と新しい約束が与えられている山を比較します。古い契約はシナイの荒れ野の中でモーセを通して結ばれました。それは律法を守らない者は死ぬという厳しさの中にありました。新しい契約はエルサレムのシオンの丘で結ばれました。それは神の御子イエスによって与えられた福音です。あなたがたはすでに贖われて、天の国の住人になっているのだと、信徒を励まします。

  あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。」(18~19節)

   イスラエルの民が荒野でさまよったとき、シナイ山で経験した恐ろしい体験を例にあげて語ります。<あなたがた>は、この手紙(説教)の受け取り人である迫害によって散らされたキリスト者たちです。

   手で触れることのできるもの(山)>は、出エジプト記19・13によれば、主はモーセに対して、「山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ」と、民が山に近づかないように忠告しています。<黒雲>(出19・16~18、22・18)、<暗闇>(申命記4・11)、<暴風>は神が住まわれる場所、<ラッパの音(角笛)>(出19・16,19、20・18)は、神の顕現を現しています。<聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような(出20・19、申5・25、18・16)、<言葉の声>(出19・19、申4・12)とは、イスラエルの民が「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」と願い、直接神の声を聞くことに対して極度の恐怖心を抱きました。このように荒れ野のイスラエルの民がシナイ山のふもとで経験した恐ろしい光景が語られ、そのような出来事が近づいたのではないと言っています。

   彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。」(20節)

   出エジプト記19・12~13からの引用です。<彼ら>はイスラエルの民のことです。<命令>の言葉は、契約を守らないイスラルの民に対する神の怒りと憤りが現れています。

   また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。」(21節)

   申命記9・19との関連で語られています。人間の罪に怒る神の前では、イスラエルの民はもとよりモーセでさえ震えあがらざるを得ませんでした。シナイ山のふもとでは、イスラエルの民は神の怒りの前に近づいた経験をしたのです。迫害下にあるキリススト者たちが今経験していることも、神の怒りの前に恐れるということにおいてイスラエルの民の経験と共通する経験をしているのです。

   しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、」(22~23節)

  ここからはキリスト者が今現在直面している状況の下でいかにあるべきかが語られます。あなたがたが<近づいたのは>、むしろ救いの神に近づいたことが語られます。シナイにある山ではなく、シオンにある山です。けれども、今地上にあるエルサレムにある山のことではありません。ここで言われている<シオンの山>とはシナイ山のような現実の山ではなく、「生ける神の都」「天にあるエルサレム」を指します。「天上のシオン」の<シオン>は、エルサレムの元々の名称で、後にソロモン王が神殿を建ててからは、神殿を含めて「シオン」と呼ばれるようになりました(列王記上8・1)。シオンの名称は、詩的用法で用いられ、神ヤーウェが住まわれる都としてのエルサレムを意味します。<天に登録されている長子たちの集会>とは地上の教会に属するキリスト者に約束されている終末の教会のことです。<すべての人の審判者である神>の<すべての人>とは、生きている者と死んだ者のすべてを指します。<完全なものとされた正しい人たちの霊>とは、キリストの出現を待ち望み、その贖罪によって初めて完全なものとされた旧約の義人たちを指します。

  新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」(24節)

  古い契約の仲介者モーセに対して、<新しい契約の仲介者>イエスが天のエルサレムのシオンの丘におられる様が語られます。<アベルの血よりも立派に語る注がれた血です>の<注がれた血>とはイエスが十字架上に流された贖いのための血です。その血はかつて<アベルの血>(創世記4・10~11)、すなわちアベルによって流された犠牲の血よりも、はるかにまさった犠牲と和解のしるしとなっていることを伝えています。それは復讐を叫ぶアベルの血ではなく、恵みに満ちた罪の赦しを与える血でした。

   あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。」(25節)

   語っている方>とは、天から語っておられる復活のイエスを指しています。天からのイエスによる救いのメッセージは、私たちにとって拒むべきべきではないことが警告されています。この勧めは、み言葉を聞いた者がその生活において積極的な生き方をするように求められているという意も含まれているのです。<地上で神の御旨を告げる人>とはモーセのことで、天から語っておられる方と対比させられています。地上で神の言葉を語ったモーセを拒否し、その言葉に背いた者は罰を逃れることはできませんでした。イスラエルの人々がシナイの荒れ野でとった態度を思い起させることにより、神に逆らうことの意味を教えています。今私たちは、かつての地上における声、つまり代弁者モーセを通して語られた声ではなく、「天から」遣わされた御子イエスを通して語られる御声を聞くのです。

  あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」(26節)

   あのとき>は、神がモーセを通して語られた時です。<その御声が地を揺り動か>したとは、律法が伝えられた時シナイ山が震えたこと(出19・18)を指し、この神顕現の光景は、終末の日の状況を想起させます。詩編18篇8節に「主の怒りは燃え上がり、地は揺れ動く。山々の基は震え、揺らぐ」とあります。<わたしはもう一度…>はハガイ書2・6の引用です。ハガイは、バビロンからの帰還者たちに、神殿を中心とするイスラエルの再建を語り、神殿完成後にメシアの時代が到来することを預言しました。著者はこのハガイの預言を世界の終末と受け止め、ここに引用したものと思われます。終わりの日には<地だけではなく天をも揺り動かそう>と主は言われます。

   この『もう一度』は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。」(27節)

  もう一度、地だけでなく天も揺り動かされるのは、<揺り動かされないものが存続するため>です。<揺り動かされないもの>とは、28節の<揺り動かされることのない御国>のことです。著者は、読者であるキリスト者に御国の一員である自覚をうながして、喜びの確信の中にある幸いを示します。それはそのまま28節の「神への感謝、そして奉仕」につながります。

   このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。」(28節)

   キリスト者は今すでに終末的な約束としてこのような御国を与えられています。神の恵みを受けとめることのできる者のみが、まことの感謝を神にささげることができるのです。また<感謝の念>と<畏れ敬う>神への思いは、<神に喜ばれるように仕え>るということで姿勢が生まれ、ふさわしい礼拝の態度が生まれます。

  実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。」(29節)

   申命記4・24の引用です。新しい契約においては神はすべてのものを<焼き尽くす火>のような厳しさを失われません。恵みと厳しさは並存します。キリスト者が神の恵みに甘えて福音の言葉を拒否するならば、神との永遠の交わりに入ることはできません。審判を恐れつつ、仕えてゆくことが求められています。

  世界を創造し、支配し、その世界を揺り動かす力を持っておられる方、それがイエスによって啓示されました。同時に、イエスはこの「揺り動かされることのない御国の」の王であり、キリスト者はその御国の一員です。この御国にある<天のエルサレム>こそ、私たちが目指す<神の都>です。<天のエルサレム>は、11章には、「神が設計者であり、建設者である堅固な土台を持つ都」(11・10)とあり、信仰の先達たちが熱望した「天の故郷」(11・16)です。それゆえに、今、置かれている生活の場がどのような苦境にあったとしても決して絶望に終わることはありません。神に喜ばれるように仕えながら、天のエルサレムを目ざして歩んでまいりましょう。

 

 

 

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