富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「山上の説教ー八つの幸いの教え」 マタイによる福音書5章1~12節、17節

2017-02-12 13:21:38 | キリスト教

         「祝福の山」から見たガリラヤ湖

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

            日本キリスト教 富 谷 教 会

                          週    報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

降誕節第8主日   2017年2月12日(日)  午後5時~5時50分

        礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 352(来たれ全能の主)

交読詩編   37(悪事を謀る者のことでいら立つな)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書5章1~20節(p.6)

説  教  「山上の説教ー八つの幸いの教え」 辺見宗邦牧師

祈 祷                

讃美歌    57(ガリラヤの風かおる丘で)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

              次週礼拝 2月19日(日) 午後5時~5時50分

               聖書  マタイによる福音15章21~31節

               説教  「いやすキリスト」 

               交読詩編103篇

                                         讃美歌(21)206 356 24 聖餐式 72 

    本日の聖書 マタイによる福音書5章1~12節、17節

 1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2そこで、イエスは口を開き、教えられた。3「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである4悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。5柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。6義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。7憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。8心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。9平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。10義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」……17「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。 

     本日の説教

  今日の聖書の箇所は、いわゆる『山上の説教』と言われている五章から七章まで続く長い説教の中の最初の部分です。始めに、山上の説教が語られる状況の説明があります。

  イエスは「群衆を見て」山に登られました。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来ました。登られた山は、ガリラヤ湖の北岸の町、カファルナウムの北西にある「祝福の山」とされています。湖面から125メートルの小高い山には1938年に建てられた美しい八角堂のフランシスコ会教会があります。山の下に広がる斜面の先に、ガリラヤ湖の美しい景色を見渡すことができます。   

  イエスと弟子たちを取り囲むように群衆は集まりました。イエスが腰を下ろすと、弟子たちが足元に座りました。イエスは、弟子たちを主にして群衆にも「あなたがた」と語りかけます。

  山上の説教は祝福の言葉で始まります。ギリシャ語の原文では、文頭には<幸いである>という宣言があり、続いてこの祝福を受ける人の条件について述べ、最後に祝福の内容を示されます。

  この文型が九回繰り替えされます。最後の祝福は、それに先立つ八回の祝福とはかなり文体が違っています。八回の祝福がいずれも簡潔な文であるのに対して、最後の祝福は長い散文体になっています。最後の祝福は後に追加されたものと見做され、「八福の教え」という呼び方もなされています。「祝福の山」に建つ八角堂の内部の八つの壁面には、八つの祝福の言葉がそれぞれの面にラテン語で記されているのもそのためです。

     

 「幸いです」とは、単に「幸せである」という一般的な幸運ではありません。<幸い>とは神と人との正しい関係を示すものであり、真の幸せを与えるのは神なのです。この<幸せ>は終末に臨んだ時代に生きる信仰者への慰めと神の約束の確かさを表しているのです。

1「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(3節)

 <心の貧しい人々>とは、日本語ではこの表現は普通「がつがつとして貪欲な人」とか、「おおらかさがなく他人に寛容でない人」を意味します。ここではそういう意味で用いられているのではありません。「神に全く依り頼んでいる人」のことです。すべては神様の恵みに生かされていることを自覚し、自らを貧しい者であるかのように見做している人」です。富んでいても、すべては神様からの預かりものとして、神様の御心に従う人です。

 御子キリストとともに神の支配が来ているのです。「心の貧しい人々」は、神の国に将来参加するというだけでなく、その至福を現在受けているからこそ「幸い」なのです

2「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」(4節)

  ここで言われている悲しみは、人生において直面するいわゆる悲しみではありません。イエスが言われた「悲しんでいる」とは、神に逆らっているこの罪に満ちた世界や人間の罪に対し痛み悲しんでいる人です。罪を悲しむ者は、罪から離れ、罪に打ち勝つ人になることを求めます。罪人はこうして神の前に悔い改めてへりくだるように呼びかけられているいるのです。

  悲しんでいる人を慰めるのは、いうまでもなく神です。現在すでにイエスによって罪を赦され、慰められています。そして、世の終わりに、すべての被造物が罪による虚無から解放され、「主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わる」(イザヤ60:20)のです。

3 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」(5節)

 「柔和」という日本語は、どちらかというと弱々しい響きがあります。ここで言われている「柔和」はそうではありません。イエスこそ、柔和な王でした。イエス様は父なる神様の赦しを伴う愛によって、敵をも赦し、罪深い人間を救ってくださった方です。「柔和な人々」とは、イエス様のような愛に満ちた人のことです。

 「地を受け継ぐ」とは、イエス・キリスとともに来ている神の支配する天地を継ぐ人とされることです

4「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」(6節)

  ここで言われている「義」は、単なる「正しさ」や「正義」ではありません。神のご意思にかなう正しさを求めて、神の戒めと掟を守る者のことです。

  この義(正しさ)を熱心に追及する人々に対し、イエスは「満たされる」と約束されました。「神の国と神の義」を求めていくとき、天国の約束と同じような満足を与えられるのです

 5「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」(7節)

  日本語の「憐れみ」は情緒的な意味合いが強いが、この「憐れみ」は、単なる同情ではなく、他の人に対して「行動に現れる愛」です。「あわれみ」は罪の結果生じた痛み、苦悩、悲劇を共に味わい担う愛です

 イエスは、この地上で他人にあわれみを施すなら、やがて、神から十分なあわれみを受ける、と教えられたのです。キリスト者は、すでに神のあわれみを味わっている者たちです

 6「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」(8節)

 「心の清い人々」とは、「潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことのない人」(詩篇24:4)です。このように、「心の清い人」とは、正しい良心をもち、悪意を全くいだかない者のことです。

  イエスは、「その人は神を見る」と約束されました。「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔を合わせて、見るであろう」(コリント一、13:12)とあります。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」(ペトロ一、1:8)と言われているように、イエス様との霊の交わりを与えられている心の清い者には、顔と顔を合わせて見るという神との親しい交わりが約束されているのです

7「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(9節)

 「幸いな人」は、「平和を実現する人」です。イエスが語られた平和とは、ローマ皇帝がもたらす圧倒的な軍事力をもって地域を平定し、秩序、安全、繁栄を保証するような平和とは異なり、平和の神が人と和解することから始まります。それは、罪を容認したり、真理をあいまいにするものではなく、正義や真理をその土台としています。イエスによるこの平和を受けた者が、その平和を、自分を取り囲んでいる人々にもたらすよう努力します。そのような人々が、ここでいう「平和をつくる者」です

 「平和を実現する人」には、「神の子と呼ばれる」という約束が与えられています。「神の子」であるイエスが約束されているのです。すでに恵みによって神の子とされたものが、将来神の子と呼ばれるにふさわしい状態になることを指しています

8「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(10節)

 「義」とは神のご意思にかなう正しさです。ペトロの手紙一、14節に「義のために苦しみを受けるのであれば幸いです。人を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい」とあります。

  明らかに不当な国家の強制処置に服さなければならない場合に、「天の国はその人たちのものである」という約束は効力を発します。この祝福は、迫害状況にある聴衆を勇気づけるものです。

 「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(11-12節)

 11-12節は、「わたしのために」とあるように、イエスの弟子に限定された話です。この迫害は、キリスト者がイエス・キリストに属し、そしてキリストを自分たちの主と告白するがゆえに起こります。イエスは義の教師として「義の道」(21:32)を教えます。従って10節では迫害が、「義のために」起こるのに、ここではイエスのために起こるのです。イエスは律法と預言者の成就者として、ユダヤ教の口伝を否定しました。そのようなイエスに従う者は、迫害を避けることはできませんでした。後にパウロが「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」(テモテ二、3:10)と述べているとおりです。

  そのような迫害を受けている弟子たちに対し、イエスは「喜びなさい。大いに喜びなさい」と勧めます。なぜ、迫害を受ける者が喜ぶべきなのでしょうか。二つの理由が挙げられています。まず、迫害には天で大きな報いがある、ということです。もう一つは、迫害される者は預言者と同列に置かれる、ということです。イエスのために迫害されることは、このような予言者の仲間に加わることであり、貴い使命を果たすことになるのです。ペトロの手紙にも、「たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです」(ペトロ一、3:14)とあります。この場合の「義」は、キリスト教信仰に生きることを指しています。

  山上の説教では、イエスはまず、御国の民に与えられている祝福を解き明かされました。17節では、「わたしの使命は、律法や預言者による律法解釈を廃止することであると思ってはならない。わたしの使命は廃止することではなくて、神の意志を明らかにするために、律法を再解釈したのである」と言っています。

 

 

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