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日本キリスト教 富 谷 教 会
週 報
年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』
聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)
聖霊降臨節第8主日 2016年7月3日(日) 午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 327(すべての民よ、よろこべ)
交読詩編 96(新しい歌を主に向かって歌え)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書 使徒言行録24章10~21節(新p.262)
説 教 「復活の希望」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 545(まことの神)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 7月10日(日) 午後5時~5時50分
聖書 使徒言行録27章33~44節
説教 「破局からの救い」
讃美歌(21)462 536 24 交読詩編 54篇
本日の聖書 使徒言行録24章10~21節
10総督が、発言するように合図したので、パウロは答弁した。「私は、閣下が多年この国民の裁判をつかさどる方であることを、存じ上げておりますので、私自身のことを喜んで弁明いたします。11確かめていただけば分かることですが、私が礼拝のためエルサレムに上ってから、まだ十二日しかたっていません。12神殿でも会堂でも町の中でも、この私がだれかと論争したり、群衆を扇動したりするのを、だれも見た者はおりません。13そして彼らは、私を告発している件に関し、閣下に対して何の証拠も挙げることができません。14しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。15更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。16こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。17さて、私は、同胞に救援金を渡すため、また、供え物を献げるために、何年ぶりかで戻って来ました。18私が清めの式にあずかってから、神殿で供え物を献げているところを、人に見られたのですが、別に群衆もいませんし、騒動もありませんでした。19ただ、アジア州から来た数人のユダヤ人はいました。もし、私を訴えるべき理由があるというのであれば、この人たちこそ閣下のところに出頭して告発すべきだったのです。20さもなければ、ここにいる人たち自身が、最高法院に出頭していた私にどんな不正を見つけたか、今言うべきです。21彼らの中に立って、『死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁判にかけられているのだ』と叫んだだけなのです。」
本日の説教
パウロが、シリアのダマスコ付近でキリスト教に回心したのは、紀元33年頃でした。主イエスの十字架の死の三年後のことです。パウロの誕生が紀元10年頃とすると、回心は、彼が23歳前後の頃になります。それはパウロへの主イエスの顕現であり、使徒としての召命でした。
回心後エルサレムを訪問し、主の兄弟ヤコブに会ったのはその二年後(ガラテヤ1・18には三年後とある)でした。その後、生まれ故郷のキリキア地方のタルソスに行きました。エルサレム教会からシリア州のアンティオキアへ派遣されたバルナバは、タルソスに行き、パウロをアンティオキアに連れ帰りました。二人は丸一年教会に一緒にいて、多くの人を教えました。アンティオキアの信徒が初めて「キリスト者(クリスチャン)」と呼ばれるようになりました(11章26節)。パウロは、先のエルサレム訪問後14年たってから(紀元48年)、バルナバと一緒にエルサレムに上り、異邦人伝道をめぐっての使徒会議に参加しました。
アンティオキアの教会から送り出されて、パウロは紀元48年に第一回伝道旅行(13章1節~14章28節)にでかけます。パウロによる第二回伝道旅行は、49年~52年にかけて行われました(15章36節~18章22節)。この旅行で福音がオリエント世界(アジア)からギリシャ世界(ヨーロッパ)へと伝えられます。パウロはアテネやコリントで伝道しました。
第三回伝道旅行は、53年~56年に行われました(18章23節~21章26節)。アジア州の首都エフェソ(ローマの植民都市)で二年間伝道した後、ヨーロッパのマケドニア州とアカイア州(ギリシャ)に行きました。紀元56年、ギリシャのコリントに三か月滞在したあと、異邦人教会からの献金を持ってエルサレム教会を訪問することにしました。しかし、このパウロのエルサレム訪問はどんなに危険なことかを、途中小アジア州のミレトスの港町でエフェソの教会の長老たちを呼び寄せて別れを告げた遺言説教で語っています。
「今、わたしは、霊に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしは分かっています。」(20章22節~25節)
このように、パウロのエルサレムへ行く決意は固く、苦難や死をも覚悟したものでした。人々は、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しみました。
使徒言行録21章17節~26節は、エルサレムに戻ったパウロのことが書かれています。エルサレムで七日過ぎようとしていたときパウロはエルサレム神殿境内でアジア州から来たユダヤ人に捕らえられたのです。パウロが、ユダヤ人しか入れない所に異邦人を連れ込んで神殿をけがしたと誤解され、危うく殺されそうになったとき、ローマから派遣されている守備隊の千人隊長が駆けつけパウロを逮捕して保護したのです。彼は神殿側にあるアントニア城塞の兵営に連行されるとき、民衆に向かって話すことを許され、兵営の階段から民衆に弁明しました(21章27節~22章21節)。しかし、かえって人々の反感を煽るような結果いなってしまいました。
パウロはローマ帝国の市民権を持っていることを主張したので、鞭打ちの刑は免れました。千人隊長は、翌日祭司長たちと最高法院の議員を招集して、パウロの弁明を聞きました。23章1節から6節には、最高法院でのパウロの弁明が記されています。パウロは議場で声を高めて言いました。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」<死者の復活の望み>とは、イエスの復活で成就した死人の復活の望みです。この弁明の意図はパウロが騒乱を引き起こすようなユダヤ人ではなく善良な人間として認めさせることでした。しかし、パウロがこう言ったので、<復活も天使も霊も否定する>と言われているサドカイ派とこれを認めるファリサイ派との間に論争が生じ、最高法院の議場は騒然となりました。パウロは再び兵営に連れて行かれました。
その夜、主イエスはパウロのそばに立たれて、「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように。ローマでも証しをしなければならない。」と言われたのです。
その翌日、四十人以上のユダヤ人たちが、パウロを殺すまでは飲み食いしないという暗殺の陰謀を企てていることを知った千人隊長は、パウロをエルサレムからカイサリアの総督フェリクスのもとに護送しました。フェリクスは、ヘロデの官邸にパウロを留置しました。
その五日後、パウロを告発するため、大祭司アナニヤは長老数名と弁護士テルティロを連れて下ってきました。テルティロは総督フェリクスの前でパウロを訴えました。
パウロの告発の理由は三つです。
1.パウロは疫病のような人間で、ローマの平和の騒乱者である。
2.<ナザレ人の分派>(キリスト者の異端)の首謀者である。
3.神殿の冒涜者である。
今日の聖書の箇所は、告発に対するパウロの弁明です。
① 世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしているという訴えに対して、パウロは、自分がエルサレムに上ったのは礼拝のためで、暴動を起こすためではないと反論します。エルサレムに滞在したのはたった十二日間で、そんな騒ぎを起こす余裕もないし、それにだれ一人パウロが騒ぎを起こしたのを見たという目撃者が出ないのがその証拠だと主張します。
② 次に彼は、彼らが<分派>と呼ぶ<この道>(キリスト教)に従っていることを認めます。けれども、ユダヤ人に「異端」と見做されている自分たちの方が、かえって完全に旧約聖書の教えと一致した教えを守り、特に死人の復活の事柄にも正しくかかわていることを述べて、その正当性を主張します。そしてパウロは、義人も悪人も必ず復活し、神のさばきの前に立たなければならないという復活の信仰を持っていること、またそれだからこそ自分は「いつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしていることを陳述します。
③ 第三の「神殿の冒涜者である」という告発に対しては、自分は神殿を汚すどころか、自分のエルサレム上京の目的は<同胞に救援金を渡すため、また供え物を献げるため>であり、何年ぶりかで帰って来たこと、その供え物のために清めを受けて神殿の中にいたこと、別に群衆の騒動もなかったこと。騒動の原因はすべて、アジア州から来た数人のユダヤの誤解、曲解によるもので、もし告発があるなら、彼らが告発すべきである。問題になった点と言えば最高法院で述べた<死者の復活のこと>で議場が荒れたのであって、これはもとより訴訟の対象になるようなことではない。従ってこの告訴は無効ですと弁明しました。
総督フェリクスは、この告訴が政治問題ではなく、ユダヤ教内部の宗教問題であったことを知っていたので、判決を出さず、千人隊長が来るまで、裁判を延期することを宣言し、パウロの監禁については、寛大な処置を百人隊長に命じました。この後、パウロはカイサリアで二年間監禁されることになるのです。
二年後、フェリクスは総督を罷免され、フェストゥス総督が着任し、パウロを裁判いかけると、パウロはローマ皇帝の法廷で裁判を受けたいと上訴しました。パウロはアグリッパ王の前で弁明したのち、ローマへ向かって船出することになります。
パウロの使徒としての労苦と苦難は、コリントの信徒への手紙二、11章23b~28節に記されてます。「死ぬような目に遭ったことも度々でした」と報告しています。パウロの十字架を負ってイエスに従う生き方はどこから生まれるのでしょうか。それはアグリッパ王の前でも語られるのですが、復活のイエスに出会ったことにあります。復活されたイエスこそ、神の御子であり、旧約聖書に予言されている、人の罪を負う苦難の僕(しもべ)であるとわかったのです。パウロは、深い愛をもって呼び掛けてくださる生ける主エスとの決定的な出会いを経験したのです。「わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして…あなたを奉仕者、また証人にするためである」(26章16)と主は言われたのです。主キリスト・イエスによって示された神の愛、そして死んだ方、否むしろ、復活された方であるキリスト・イエスがわたしたちのために神の右に座って執り成してくださるだから、このキリストの愛から、艱難も、苦しみも、迫害も、飢えも、裸も、危険も、剣も、どんな被造物も引き離すことはできない(ローマ8・34~39)というパウロの神の愛に対する確信と復活の信仰が、死をも恐れないパウロの生き方を生んだのです。
パウロのローマでの殉教は、紀元60年頃と推定されています。回心からの四十年近い人生は、神からの召命に応えるために用いられました。パウロは、主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、キリストのゆえに失ったすべてを塵あくたとみなしています(フィリピ3・8)。生ける復活のイエスとの出会いの体験とその後の主イエスによる恵みが、パウロの使徒としての献身を支えました。私たちもパウロの生き方に学び、与えられている大きな恵みに応える生き方をしたいと思います。
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