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富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「奇跡を行うキリストー湖上を歩く」マタイによる福音書14章22-36節

2025-03-02 19:03:09 | キリスト教

   ↑    ティントレット(1518-1595)イタリアの画家「湖上を歩くキリスト」(1575-80年作)ワシントン・ナショナル・ギャラリー ヨハネによる福音書6章16-30節による絵画。

〒981-3302 宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 

TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

  日本福音教団 富谷教会週報

 降誕節第10主日 2025年3月2日(日)午後3時~3時50分      

礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                斎藤 美保姉

讃美歌(21) 355(主をほめよ、わが心)  

交読詩篇  107:1-22(恵み深い主に感謝せよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

  • 聖 書(新同訳)マタイによる福音書14章22-36節(新p.28)                                                                                                                           

説 教「奇跡を行うキリストー湖上を歩く」辺見宗邦牧師

祈 祷    

讃美歌(21) 287(ナザレの村里)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21) 24(父・子・聖霊の)

祝 祷

後 奏

       次週礼拝 3月9日(日) 午後5時~5時50分

 聖書  マタイによる福音書4章1~11節

 説教  「荒れ野の誘惑」 

 讃美歌(21)141 284 24 交読詩編107:1-22

  本日の聖書 マタイによる福音書14章22―36節

 マタイによる福音14章22~36節れからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。 23群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。24ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。25夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。26弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。27イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」28すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」29イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。30しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。31イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。32そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。33舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。34こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。35土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、36その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。

 本日の説教

 「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。」(マタイ14:22~23)

 「それからすぐ」とは、「五千人に食べ物を与えた」あとすぐ、ということです。主イエスが「五千人に食べ物を与えた」奇跡は、四つの福音書すべてに記されている唯一の奇跡物語です。この奇跡の後に続く出来事として、イエスの「湖の上を歩く」奇跡を、マタイ、マルコ、ヨハネが伝えています。

 「五千人に食べ物を与えた」場所については、実は定かではありません。マタイもマルコも、舟に乗って「人里離れた所へ行った」と記しています。ガリラヤ伝道の拠点であったカファルナウムから反対側、ガリラヤ湖の北東のベトサイダ(近くの地域と想定されます。ルカだけが「ベトサイダという町」(ルカ9:10)と記しています。ルカの記す「ベトサイダ」は、ペトロたち漁師の出身地である「ベトサイダ・ユリアス」とする説があります。しかし、そこよりやや南に位置する、別の「ベトサイダ」という漁師の町が想定されるのです。「ベトサイダ」は漁師の町と言う意味の言葉ですから、複数あっても不思議ではありません。こちらの方が、「人里離れた所」であり、マルコの福音書との整合性も一致するのです。五千人に食べさせたあとすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、「向こう岸」へ先に行かせました。その間に五千人の群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになりました。夕方になっても、ただひとりそこにおられました。イエスがひとりで山に退かれたのは、ヨハネによると、「人々が来て、自分を王にするため連れて行こうとしているのを知ったので」としています。イエスは群衆が彼のことを政治的な意味でのメシア(救世主)とし、ユダヤ独立運動の中心人物にしようと察知し、そのような状況を回避するため、群衆を解散させ、弟子たちをも急いで舟に乗せ、「向こう岸」に先に行かせました。おそらく主イエスは後で、岸沿いに徒歩で向い、弟子たちと合流するという話になっていたのでしょう。そしてイエス自身は祈るために山に退かれました。

 

  ベトサイダ 「人里離れた所」、「五千人が食事を与えられた所」、ルカの記す「ベト         サイダ」(ルカ9:10)?

  ベトサイダ・ユリアス 「向こうの岸のベトサイダ」(マルコ6:45)五千人の食事の後、イエスが弟子たちに先に行かせた「向こう岸」ゲネサレト(平原) カファルナウムの南西地帯、イエスの水上歩行の後、一行が舟で着いた所

 マルコによる福音書では、弟子たちが最初に目指した目的地は「向こうの岸のベトサイダ」(マルコ6:45)とあります。この「ベトサイダ」は、ヨルダン川がガリラヤ湖に流れ込む河口の東岸を北に1.5㎞ほど入った地点にある漁師の町「ベトサイダ・ユリアス」(現在名はエッ・テル)を指しているのではないかと言われています。【豊田栄著「マルコによる福音書注解Ⅰp.534、みすず書房1984年発行】

 以下の【 】内の記事も説教では省略。

 【この町は、ヘロデ大王の息子の一人、領主のピリポ・ヘロデが村から町の規模に再建し、ローマ皇帝の娘ユリヤに因んで「ベトサイダ・ユリアス」と命名した港町です。イエスの弟子であった、シモン・ペトロとその兄弟アンデレ、ヤコブとその兄弟ヨハネ、そしてフィリポの出身地です。】

 マタイも、マルコによる福音書も、イエスと弟子たちの舟が最後に到着した地は、「ゲネサレト」です。ゲネサレトとは、イエスが宣教を開始したカファルナウムの南方に広がる、肥沃な平原地帯です。【ヨハネでは、五千人の供食の後、イエスの一行が目ざした地は「湖の向こう岸のカファルナウム」(ヨハネ6:17)と記しています。】

 「ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。」(マタイ14:24~26)

 物語の舞台となっているのは、パレスチナの北部にあるガリラヤ湖です。ガリラヤ湖は上空から見ると楽器の竪琴(ハープ)のようなかたちをしている湖で、南北に21キロメートル、東西に13キロメートルの大きさです。湖のまわりには町が点在しており、人々は舟にのって町から町へ移動をすることができました。

 弟子たちは、イエスの指示に従い、イエスをその地に残して舟に乗り込みました。向う岸のべッサイダへ行こうとしました。「ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。」とあります。弟子たちの乗り込んだ舟は、逆風と波によって前に進めない状況に陥っておりました。1スタディオンは今の長さに換算しますと約185mですから、陸から2、3㌔くらい離れた所で、弟子たちの乗った舟は前に進めず、強風と波に押し戻されないように、朝方まで格闘していたのです。

 「逆風のため」とは、ガリラヤ湖独特の嵐を指します。これは雨季にしばしば起こる西からの突風と思われます。「波に悩まされていた」は波に翻弄されていたという意味です。弟子たちの多くはガリラヤ湖の漁師だったので、天候や波や舟の操作について長年の経験と知識を持ったいたが、今はそれも役に立たない事態でした。真っ暗な夜の湖上、波は逆巻き、逆風は吹き続け、少しも前に進めない状態でした。

 夜が明けるころ、イエスが湖に現れた時、舟は岸から遠く離れていて、弟子たちは波に悩まされていました。おびえている弟子たちを助けるため、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれました。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげました。

 「イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。」(マタイ14:27~29)

 イエスは、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と、おびえている弟子たちにすぐ話しかけられました。イザヤ書43章には、「…恐れるな、わたしはあなたを贖う。…水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。…わたしは主、あなたの神」(イザヤ43: 1、2、3)とあります。人の子イエスは、神的な存在としてではなく、神が超自然的な力を与えられたメシアとして奇跡的な能力を発揮されたのです。

 するとペトロはイエスのもとに行きたいと思ったのか、「主よ、あなたでしたら、わたしに命じて、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言いました。イエスはペトロの願いを聞き入れ、「来なさい」と言われたので、ペトロはイエスの言葉の従い、舟から一歩踏み出しました。すると不思議なことにペトロはイエスの方に歩き出したのです。

 「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。」(マタイ14:30~32)

 イエスの超自然的な救済の力を信じ、ペトロはイエスを見つめて歩き出しました。しかしペトロは、飲み込もうとする波に目を取られ、強い風が怖くなり、イエスから目を離した途端、波に沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫びました。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われ、二人で舟に乗り込まれました。

 

 すると風は静まりました。イエスが嵐を静めたのです。詩篇77篇20節に「あなたの道は海の中にあり、あなたの通られる道は大水の中にある。あなたの踏み行かれる跡を知る者はない」とあり、「あなたは奇跡を行われる神、諸国の民の中に御力を示されました」(15節)とあります。旧約聖書では、海を支配しているのは神なのです。

 「舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ。こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。」(マタイ14:33~34)

 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と信仰告白をしました。超自然的な力をもつイエスに接した弟子たちは、救い主イエスの前にひれ伏したのです。「神の子」というイエスに対する呼びかけの称号は、イエスが、超自然的な力を賦与されたメシアであることを示しています。

 「こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。」マタイ14:34~36)

 こうして一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着きました。この平原は、湖岸の沿って南北に6キロ、内陸に4キロ広がる平地です。土地の人々は、うわさのイエスが来られたと知り、付近にくまなく触れ回りました。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れてきました。メシアであるイエスは、病人をいやすことによって、その民に対して神が配慮しておられることを引き続き示されました。ここでは、イエスの服のすそにさわるだけで十分なのだという確信の中に、彼のいやしの力を信じる信仰が示されています。このようにして、病気で苦しんでいる大衆の人々のいやしが行われました。

 「湖の上を歩くイエス」の奇跡は、教会が苦境に陥って悩むときも、イエスから声をかけられるなら、奇跡的力を与えられることを示しています。      

 詩篇に、「彼らは、海に舟を出し、…深い淵で主の御業を、驚くべき御業を見た。(嵐が起り、波が高くなったので、彼らの舟は上下に揺れ動き)、苦難に魂は溶け、酔った人のようによろめき、揺らぎ、どのような知恵も呑み込まれてしまった。苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから導き出された。主は嵐に働きかけて沈黙させられたので、波はおさまった。彼らは波が静まったので喜び祝い、望みの港に導かれて行った。主に感謝せよ。主は慈しみ深 く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。」(詩篇107篇23~31節)とあります。

 神は海をも支配し、苦難から助ける方であることを、この詩篇は示しています。「湖の上を歩くキリスト」の物語では、舟は誘惑や試練、あるいは迫害に翻弄されている教会を表しているようにも思われます。今や神の右におられるキリストは信仰をもってイエスを呼び求める人々を救う力を持って、教会のために先頭に立っておられる方であります。この世の様々な問題に遭遇して、助けを求めているわたしたちに、、湖の上を歩いてでも近づき救ってくださるイエスこそが、救い主であることを教えています。

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