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日本キリスト教 富 谷 教 会
週 報
年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』
聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)
聖霊降臨節第9主日 2016年7月10日(日)午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 462(はてしも知れぬ)
交読詩編 95(主に向かって喜び歌おう)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書 使徒言行録27章33~44節(新p.269)
説 教 「破局からの救い」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(旧) 273B(わがたましいを)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 7月17日(日) 午後5時~5時50分
聖書 ローマの信徒への手紙14章10~23節
説教 「命の糧」
讃美歌(21)56 500 24 交読詩編68篇
本日の聖書 使徒言行録27章33~44節
33夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。34だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」35こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。36そこで、一同も元気づいて食事をした。37船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった。38十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。39朝になって、どこの陸地であるか分からなかったが、砂浜のある入り江を見つけたので、できることなら、そこへ船を乗り入れようということになった。40そこで、錨を切り離して海に捨て、同時に舵の綱を解き、風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んだ。41ところが、深みに挟まれた浅瀬にぶつかって船を乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波で壊れだした。42兵士たちは、囚人たちが泳いで逃げないように、殺そうと計ったが、43百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせた。そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、44残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令した。このようにして、全員が無事に上陸した。
本日の説教
今日の聖書の箇所、使徒言行録27章27節のところは、パウロが裁判を受けるために他の数人の囚人と共に、帆船でイタリアのローマに護送される途中の出来事です。
カイサリアで監禁されていたパウロは、ローマの市民権を持っていることを理由に、皇帝に上訴したので、ローマの法廷に出頭することになったのです。もし、エルサレムでの裁判に送り返されれば、パウロはユダヤ教の祭司長たちによって途中で殺される運命にありました。
ローマに行くことはパウロの長い間の願いでした。当時、文化と政治の中心である世界の首都ローマにおいて、キリストの福音を証しすることと、ローマにいるキリスト者たちを励まし、信仰による交わりをすることの願いが(ローマ1:13)、囚人としてではありましたが、かなえられる時が来たのです。
パウロの身柄は、百人隊長ユリウスに預けられ、カイサリアからアドラミティオン港所属の船で出航しました。アドラミティオン港は、小アジア西北のトロアスの南東のアソスに近い海港都市(現在のトルコの西海岸にあるエドレミトのこと)の港です。テサロニケ出身のマケドニア人アリスタルコと、この書を書いたギリシャ人医師ルカが、パウロの世話係として同行を許されました。
地図を見ながら、パウロのローマへの旅をたどってみましょう。
1 このロ-マへの旅は、西暦58年か、59年の8月中旬~9月初旬頃、カイサリアの出港から始まります。
2 翌日シドンに停泊しました。そこから船出しましたが、向い風が強かったので、キプロス島の北を航行しました。
3 ミラで、イタリア行きのアレクサンドリアの穀物運搬の貨客船に乗り変えました。36節に、276人乗船していたと記されているので、かなり大きい帆船(およそ300~500トン)です。
4 強風のため、幾日もかかってようやくクニドス港に近づきました。
5 風に行く手を阻まれてサルモネ岬(岬アクラ・シデロスのことであろう)を回ってクレタ島の陰 を航行しました。
6 「良い港」(現在のカリリメネスか?)と呼ばれるところに着きました。10月の第一週の終わり頃の到着です。かなりの時がたっていて、すでに<断食日>(九月末~十月初め)を過ぎていました。九月中旬から翌年三月までは海が非常に荒れるので航海は危険でした。パウロはこの季節の航海を避けるように人々に説得しました。
7 しかし、百人隊長は、船長や船主の方を信用し、冬を過ごすためにフェニクス港(現在のルートロか?)に行くことになりました。ときに南風が静かに吹いて来たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えて錨を上げ、進みました。しかし、間もなく、島のイーディ山(海抜2456m)から吹き降ろす「エウラキロン」(北東から吹く暴風)に船は巻き込まれ流がされるままになりました。
8 <カウダ(現在のガウドス)>という島かげに入ったとき、彼らは小舟を引き上げ、綱で船を船首から船尾まで縛りあげ、シルティス(リビアのシルト湾のこと)の浅瀬に乗り上がるのを恐れて、防流錨(いかり)を降ろしたまま流れにまかせました。
ひどい暴風に悩まされたので、翌日、人々は積み荷を海に捨て、三日目には船具も捨てました。幾日もの間、太陽も星も見えず、自分たちの位置も進路も確認できないまま、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていました。人々は長い間、食事をとっていませんでした。そのときパウロは、皆さん、元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。…わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」と言って励ましました。
船は、クレタ島の「良い港」を出港してから、十四日間、アドリア海を漂流しました。
当時は、クレタ島からシチリア島までの領域をアドリア海と呼んでいたようです。その距離は870㎞です。大阪から仙台位までの距離になります。(現在、長靴の形をしたイタリア半島の踵の部分の岬までをアドリア海といいます。その南は、シチリア島までがイオニア海です。それ以上南は地中海です。)
真夜中ごろ船員たちは陸地が近いと推測し、水深を測ると、一度目は<二十オルギィア(36メートル)>、二度目は<十五オルギィア(27メートル)>でした。船が暗礁に乗り上がることを恐れて、船員たちは錨を船尾から四つ投げ込み、夜明けを待ちました。ところが、船員たちは船首から錨を降ろすふりをして、小舟を降ろし、船から逃亡しようとしました。パウロは百人隊長と兵士たちに、「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない」と言ったので、兵士たちは小舟をつないでいた綱を断ち切って、小舟を流し、船員たちの逃亡を阻止しました。
ここからが、今日の聖書の箇所に入ります。
夜が明けたころ、パウロは一同に食事をするように勧めました。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」こう言って、パウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。そこで一同も元気づいて食事をしました。乗船者は全部で二百七十六人いました。食後、彼らが満腹した後、船にいた者たちは、座礁を防ぐため、穀物を海に投げ捨てて、船体を軽くしました。
9 翌朝、砂浜のある入り江を見つけました。しかし、砂浜にたどり着く前に座礁してしまい、泳いで陸地に向かい、何とか全員が無事に上陸することが出来ました。その陸地はマルタ島でした。おそらく10月下旬から11月初め頃にかけての到着かと思われます。カイサリアを出帆して2か月経過していました。
現在マルタ島の北西に聖パウロ湾があり、その入り口に聖パウロ島という小島があります。ここがパウロとその一行が漂着したところだと伝えられています。マルタ島では、冬の間、11、12、1月と3か月過ごし、2月になってローマ行きのアレキサンドリア船で出帆しました。ローマには2月下旬~3月初旬に到着したと推定されます。カイサリアから出発してからおよそ6か月後になります。
船を航行不能に陥らせたのは、クレタ島から吹いてきた「暴風」でした。南風が静かに吹いてきたので、帆船にとってはこの時とばかり出帆したのに、突然この暴風に見舞われたのです。船は激しい暴風のために地中海を漂流しました。それは想像を絶する14日間にも及ぶ苦難でした。助かる望みは全く消えうせようとしていました。
私たちの人生にとっても、嵐が訪れるときがあります。それは自然災害であったり、人災による場合や、さまざまな事情による思いがけない出来事による場合があります。
乗客や船乗りたちが恐怖に駆られ、不安におびえていたとき、パウロは、望みを失うことはありませんでした。パウロは嵐の中でも平静さを失わず、絶望しかけている人々に、だれ一人として命を失うことはないと言って励ましました。パウロのこの確信はどこからきたのでしょうか。
パウロは次のように言っています。「わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』…わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。」
パウロは、エルサレムで兵営に連れていかれた夜、主イエスがパウロのそばに立たれて、「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証ししなければならない」(使徒言行録23・11)と言われたことを覚えていました。自分がローマに行くのは神のご意思によるのであるから、自分だけでなく、一緒にいる人々も必ず助かると確信したのです。
パウロの平安の根拠は、この神の約束を信じときに与えられる聖霊の働きによるものでした。パウロは確信をもって、不安にとらわれている人々を励ますことができたのです。
パウロは、「あなたがたの髪の毛一本もなくなることはありません」と、天の父のお許しがなければ決して失われることはないという神の摂理、神のご計画と配慮を信じていたのです。
私たちにとっても重要なのは、どのような状況の中に置かれても、「思い煩うのはやめて、求めているものを神に打ち明け」(フィリピ4:6)、祈ることです。主が共にいてくださり、必ず道を開いてくださることを信じることです。そしてそのような信仰に立つとき、まわりの人々にも平安と恵みが及ぶのです。
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