富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「フィリポ・カイサリアでの信仰告白と受難の予告」マタイによる福音書16章13~28節

2017-03-19 00:03:19 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会    週  報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、リストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

受難節第2主日   2017年3月19日(日)    午後5時~5時50分

礼 拝 順 序

前 奏            奏楽 辺見トモ子姉

 讃美歌(21) 300(十字架のもとに)

交読詩編   86()

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書16章13~28節(p.31)

説  教    「受難の予告」  辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   297(栄えの主イエスの)

聖餐式    72(まごころもて)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

            次週礼拝  3月26日(日) 午後5時~5時50分

             聖書  マタイによる福音書17章1~13節

             説教   「主の変容」 

             讃美歌(21)285 481 24 交読詩編 145 

本日の聖書 マタイによる福音書16章13~28節

 13イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 14弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 15イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 16シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 17すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。 18わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 19わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 20それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。 21このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。 22すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 23イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」 24それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 25自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。 26人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 27人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。 28はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

  本日の説教

 イエスは、弟子たちを伴い、フィリポ・カイサリア地方に旅をされました。フィリポ・カイサリアは、ガリラヤ湖の北端からさらに北西に40㌔に位置する町で、ヘルモン山(ハーモン山:2815m)の南西の山麓にある、標高330mの風光明媚な地方の町です。

  現在はバーニヤスという町名で、シリアとの国境に近く、首都ダマスコ(ダマスカス)の南西に位置し、ゴラン高原の北にある都市です。ヨルダン川の水源に近い地で、紀元前二世紀のギリシャ時代には、大きな洞穴がギリシャの牧畜の神パン(上半身が山羊の角が生えた人間の姿で、下半身が山羊の姿)の誕生の聖地とされ、パン神を祭る神殿が建てられことから、パネアス(パンの町)と呼ばれていました。神殿の周囲の岸壁にはギリシャの神々が祀られました。

        パン神殿の想像図

 紀元20年、皇帝アウグストゥスはこの地をヘロデ大王に与えました。彼はここにに皇帝アウグストゥスを神としてて礼拝する神殿を建てました。ヘロデ大王の死後、フラ湖(ガリラヤ湖の北20㌔にある湖)や、ゴラン高原一帯の領主となったヘロデ大王の息子のヘロデ・フィリポが、この町を拡張し、ローマ皇帝(カイサル)に敬意を表して、自分の名も加え、フィリポ・カイサリアと改名しました。

 この地は、古代から神の宿る地として尊ばれ、異教の豊穣神バアルの祭儀の一根拠地でした。旧約聖書にも、この地がバアル・ヘルモン(士師記3:3)、バアル・ガド(ヨシュア記11:17)と言う名で呼ばれています。

 イエスは、このような異教の多くの神々が祀られているパレスチナの北限の土地に、弟子たちを連れて来られたのです。多くの神々とメシア・イエスとが向き合う場所で、弟子たちは、イエスに対する信仰を問われるのです。

 イエスは弟子たちに、「群衆は、人の子のことを何者だと言っているか」と人々の意見を尋ねました。弟子たちは、復活した<洗礼者ヨハネだ>と言っています、預言者<エリヤ>の再来だと言う人も、エレミヤのような<昔の預言者>が生き返ったのだという人もいます、と答えました。イエスは自分のことを「人の子」と自称しています。イエスは自らを、神の権威を持って終末時に現れることが期待されていた「人の子」と宣言されているのです。ガリラヤの民衆はイエスを、メシアではなく、神が終末の救済のために送られた預言者の一人と見たのです。

 イエスはさらに弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と弟子たちの考えを問われました。ペトロが真っ先に答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です。」ギリシャ語の原典では、「あなたは生ける神の子、キリストです。」となっています。口語訳聖書もこのように訳しています。ギリシャ語の「キリスト」は、ヘブライ語の<メシア>を表しています。ヘブライ語の<メシア>は「油を注がれた(者)」を意味する語であり、終わりの日にイスラエルに遣わされる救済者の称号となっています。

 「神のキリストです」という信仰告白は、イエスの復活後に成立した教会の復活信仰が基盤として成立したと考えられます。共同訳聖書がこれを「神のメシアです」と訳したのは、まだキリストの復活を知らないペトロたちの信仰告白なので、あえてそのように訳したものと思われます。

 ペトロたちは、イエスこそイスラエルが待ち望んでいた<メシア>だと言い表したのです。これまでイエスの権威に満ちた教えを受け、力ある業や奇蹟を目撃してきた弟子が、イエスをメシアと信じたのです。

 すると、イエスは、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と、お答えになりました。

 「バルヨナ」とは、「ヨハネの子」のなまった短縮形と考えられます。ユダヤ人は苗字のない時代、父の名をつけて名を呼ぶ習慣がありました(ヨハネ1:42)。「あなたは幸いだ」と、イエスはシモンを祝福しました。ペトロの信仰表明は、イエスが選んだ弟子たちにだけ与えられた神の啓示によるものでした。

 イエスは、わたしも言っておく言って、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」と、言われました。

 イエスはペトロに、岩という意味の「ペトロ」と言う名を与えました。「この岩の上に教会を建てる」とは、ペトロは与えられた名のとおり教会の土台石となると宣言されたのです。土台石の上に「教会を建てるは、一つの建物のイメージを生みます。陰府の力(直訳では「陰府の門」)という表現になり、門から連想される「天の国の鍵」という比喩が生まれます。陰府の門は死者が閉じ込められる呪の国の入口です。しかしメシア・イエスに属する者(教会)は、今や「死の力」の拘束されず、これを克服します。「陰府の門」が死を意味するなら、「天の国」は逆に命(復活)を表します。門の鍵を預かる者は、そこを通る者をすべて決定する権を持つので、単なる門番ではなく、その家の全権を委ねらた管理人です。

 イエスはペトロの告白を聞いたあと、このことはだれにも話さないように命じました。なぜなのでしょう。当時の人々が抱いていたメシア観は、ダビデ王国を再興し、ローマのの属領から解放してくれるメシアを期待していました。もし弟子たちが「イエスはメシアである」と宣伝するなら、群衆はイエスを政治的メシアと誤解することを、イエスは避けたかったからです。

  このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められました。

 ここで初めてイエスはエルサレムで受けねばならない苦難の使命について述べ、自分の間近い死と復活について弟子たちに予告しました。苦難の予告は受難が起こったときに、弟子たちがつまずくことがないように、あらかじめ語られたのです。

   イエスは、受難して復活する自分のことを<人の子>ということばで表しました。<人の子>は旧約聖書では、<人間>を表すのに用いられていますが(詩編8・5他)、そのほかにダニエル書7・13~14では、神の権威を受けた<人の子>を描いています。イエスは同時に、<主の僕の苦難と死>(イザヤ書52・13~53・12、詩編22篇118・22)の預言を成就する、<人の子>と自称したのです。

 イエスは、これから向かうエルサレムでは、弟子たちの予想とは全く異なって、最高法院を構成する、長老、祭司長、律法学者たちから排斥され、最高法院の判決で殺される運命にあることを打ち明けます。「必ず…ことになっている」と言います。イエスの苦難と死と復活は、究極的に神の意志を実現するために必然的な事であると語ります。それは、神があらかじめ決定していたことであり、旧約において記されていたことの成就なのです。<三日目に復活する>というとき、神のご計画に基づいて実現していくことが強調されています。ユダヤ式の数え方では、初めと終わりとを入れた数えるので、イエスの死なれた金曜日と、復活した日の日曜日までを含めて三日目になります。

 受難予告を聞かされたペトロは驚き、すぐにイエスに計画を変更するようにいさめました。イエスは振り向いてペトロに、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」と言われました。ペトロの言葉は、人間的な同情に満ちたものでしたが、イエスにとっては、致命的な結果をもたらしかねないサタンの誘惑でした。

 受難予告を聞いた今、弟子たちは新たにイエスに従う決断の前に立たされます。イエスは、「わたしについて来たい者は」と語りかけて、十字架への道を歩むイエスのあとに従ってくることを求めました。「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って従ってきなさい」とは、日々に、自己中心的な古い自己を捨て、キリストとの復活にあずかって、<神にかたどって造られた新しい人を着て>(エフェソ4・24)、生きることです。これは人間の努力や熱心によって出来るものではありません。ただ人間以上の力を持たれる聖霊が一人一人に臨むとき初めて可能となるのです。日毎に<試みに逢わせないでください>と主の祈りを祈りつつ、古い自分に死に、キリストにある新しい命に生きることです。

「自分の十字架」とは、キリストを信じた故に負わねばならない信仰者としての苦しみです。ある人にとっては家族の中での無理解でしょう。ある人にとっては会社での不利益でしょう。ある人にとっては偶像礼拝拒否の戦いでしょう。人により異なりますが、それが主イエスによって担わされる十字架です。

 イエスに従い、イエスと共に生きる生き方でなく、自分本位の生き方を続ける者は、永遠の命を失い、魂を失ってしまいます。キリストのために生きる者には、神が永遠の命をという賜物を与えるので、自己の魂を見出すことができるのです。

 「人の子」イエスが、独自の使命をもってふたたび到来されることが告げられています。ここで明らかに示そうとされていることは、神の王国をもたらす救い主の支配が、遠からず地上に現れる、ということです。すでに来ている主の支配が、明らかになるとき時が近づいていることを思いつつ、主イエスに従う日々の歩みを続けていきましょう。

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