↑ オランダの画家: ヘラルト・ファン・ホントホルスト タイトル: ハープを弾くダヴィデ 製作年: 1622 収蔵: ユトレヒト・セントラルミュージアム
981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403
日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」
聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)
降誕節前第5主日 2018年11月25日(日) 午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
司会 佐藤 洋子姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 355(主をほめよ、わが心)
交読詩編 23(主は羊飼い)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者祈祷
聖 書(新共同訳)サムエル記下5章1~5節(旧p.487)
説 教 「イスラエルを統一したダビデ王」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 231(久しく待ちにし)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 12月2日(日) 午後5時~5時50分
聖 書 エレミヤ書33章14~16節
説教題 「主の来臨の希望」
讃美歌(21) 227 456 24 交読詩編25
本日の聖書 サムエル記下5章1~5節
5:1イスラエルの全部族はヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。「御覧ください。わたしたちはあなたの骨肉です。 2これまで、サウルがわたしたちの王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と。」 3イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。 4ダビデは三十歳で王となり、四十年間王位にあった。 5七年六か月の間ヘブロンでユダを、三十三年の間エルサレムでイスラエルとユダの全土を統治した。
本日の説教
ダビデが聖書に最初に登場するのは、サムエル記上16章からです。ダビデは<愛された者>という意味の名です。ダビデはユダのベツレヘムで、エッサイの八番目の末子として生まれました。彼は血色良く、目は美しく、姿も立派でした。預言者サムエルからサウル王の後継者として油を注がれていました。預言者から頭に油を注がれることは、神に王として聖別されることであり、神から特別の霊の賜物と加護を受けることを象徴していました。これらの出来事はまだ公にはされていませんでした。
ダビデは羊を飼う若者でした。竪琴を巧みに演奏し、勇敢な戦士で、戦術の心得もあり、言葉にも分別があり、主が共おられる、主に祝福された人でした。若者ダビデは、サウル王に仕え、ぺリシテ人の巨人ゴリアテを倒し、武将として数々の武勲を挙げました(17章)。あまりの有能さと人望のゆえに、サウル王の嫉妬を受け、命まで狙われます。ダビデが逃亡すると、サウルは執拗に追いました。ダビデはサウル王の息子ヨナタンの友情や預言者たちによって助けられました(18~31章)。結局ダビデはペリシテ人の地に亡命し、10年間にも及ぶ逃亡生活を強いられたのです。この危機の中で歌ったダビデの預言的な詩が詩編22篇であり、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」の言葉は、キリストが十字架の受難の際に用いています。ダビデの詩は、詩編22~41篇まで記されています。
ダビデはその苦難の中で神により頼んで生きました。エン・ゲディの洞穴で、彼はサウルを殺す機会があったとき、ダビデの従者たちは、神の与えて下さった絶好の機会であると思ったにもかかわらず、ダビデは手を下しませんでした。たとえ自分の命を狙う者であっても、神が油を注がれた者に手をかけることは許されないと考えたからです(サムエル上24章)。
サウル王がダビデへの愚かな追撃をする間に、ペリシテは軍勢を整え、ギルボア山にたてこもったサウルとその軍勢に総攻撃をかけ、一挙にこれを打ち破り、ヨナタンが戦死し、サウルは自害して果てました。ダビデは有名な哀悼の歌「弓」を作って、サウルとヨナタンの死を悼(いた)みました。(サムエル下1・19-27)。
サウル王の死によって、ペリシテ人の地に逃れていた(サムエル上27・1-2)ダビデは、<ユダの町へ上る>決意をしました。ダビデは二人の妻とアビガイルを連れてヘブロンへ上りました。ダビデは彼に従っていた兵士をその家族と共に連れ上りました。
ギルボア山は、ベト・シエアンの西南。マハナイムはペヌエルに近い所。
へブロンは政治的に見てユダにおける最も重要な地した。ユダの人々は、ダビデに油を注ぎ、ユダの王としました(2・4)。紀元前1000年のことです。
サウルの軍の司令官アブネルは、サウルの子イシュ・ポシェトを擁立してマハナイムに移り、全イスラエルの王としました。サウル王家とダビデ王家の戦いは長引きましたが、ダビデはますます勢力を増し、サウルの家は衰えていきました。ついには、アブネルも暗殺され、イシュ・ポシェトも味方の裏切りにあい死にました。イシュ・ポシェトは、二年間王位にありました。
「イスラエルの全部族はヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。《御覧ください。わたしたちはあなたの骨肉です。これまで、サウルがわたしたちの王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』とイスラエルの全部族はヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。「御覧ください。わたしたちはあなたの骨肉です。 2これまで、サウルがわたしたちの王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と。》」(5・1-2)
アブネルとイシュ・ポシェトが死んだので、イスラエル(北諸部族の名称)は名実ともに指導者を失って。<ヘブロン(すなわちユダ王国の首都)のダビデを頼る以外になくなりました。イスラエルの人々は、ユダ族のダビデを自分たちの王に迎えるに当たって、両者が共に神の民イスラエル(十二部族全体を指す)の一員という意味で<骨肉>であることを強調します。しかも、サウル王の存命中でも、ダビデは事実上のイスラエルの指導者でした(サムエル上18・7,13・16)。彼らはさらに、神もまた、ダビデが<イスラエルの指導者になることを望んでいると強調します。このようにして<イスラエルの長老たち>は、神と民の双方の意思に基づき、<ダビデに油を注ぎ、イスラエルの王>としました。
ダビデは、もはやユダ単独の部族国家の王であるだけでなく、イスラエルとユダの全土>の王となったのです。ただし歴史的に見て、これによっても政治的・組織的に一枚岩の国家が出来たわけではありません。「イスラエルとユダ」は、ダビデが両者の王を兼務するという形で、本質的な二元性を秘めたままの結びつきでした。この二元性の対立が顕在化するのが、後のいわゆる王国分裂(列王上12章)です。
「イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。」(5・3)
即位の際に、<主の御前で>(すなわち聖所で、神を承認として)<契約>が結ばれたことは、ダビデのイスラエルへの王権が決して無条件で絶対的なものではなく、治める者と治められる者との間の双務的な法的合意に基づくものであったことを示唆しています。
「長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。ダビデ は三十歳で王となり、四十年間王位にあった。七年六か月の間ヘブロンでユダを、三十三年の間エルサレムでイスラエルとユダの全土を統治した。」(5・4-5)
サウル王は南部を統一できずに終わったが、ダビデ王の即位によりイスラエル統一王国が確立しました。<三十歳>とか、<四十年間>という数字は概数と思われます(列王上11・42参照)。ダビデ王はエルサレムで、紀元前961年までおよそ33年間王位にありました(年代は、共同訳旧約聖書注解Ⅰの巻末の古代イスラエル時代年表によります。)。
ダビデは南北統一のために、地理的にも歴史的にも、両部族から中立で、要害に地であるエルサレムが、カナン系の先住民エブス人の町であり、異教の町だったので、エルサレムをエブス人から奪い、エルサレムに首都に定め、ヘブロンからエルサレムに移りました。またイスラエルの信仰の中心であり、神の臨在の象徴であった「契約の箱」をエルサレムに運び、宗教の中心地ともしたのです。
人々はダビデをイスラエルの牧者、君と呼んで尊敬しました。ダビデはペリシテを平定し、近隣諸国も征服し、広大な王国を形成し、エルサレムにダビデの町を建て、イスラエルの繁栄をもたらしました。神により頼んだダビデは、神の祝福を受けたのです。
しかし、すべてが順調に進んでいたその時に、ダビデは思いもかけない罪を犯したことを聖書は告げるのです。ダビデは、バト・シェバを自分の妻とするため、夫である将軍ウリヤを最前線に送り、卑劣な方法で戦死させてしまったのです。神は預言者ナタンをダビデのもとに遣わし、その罪を糾弾しました。ダビデは自分の罪を認めて深く悔い改め、神との関係が損なわれないことを祈ったのです。その時のダビデの祈りが詩編51篇です。神はダビデを離れることはありませんでした。晩年は失意の日々を送りました。多くの異母兄弟をつくったことも災いとなりました。異母兄弟同士の間で忌まわし事件も起こり、三男アブサロムの反乱とその悲劇的な死という悲劇を生みます。ダビデはバト・シェバの生んだ子、ソロモンを後継者に指名し、息を引き取りました。
聖書はダビデを完全無欠な人として描くことはしませんでした。しかし、ダビデは後世の王の模範、象徴として名を残すことになりました。その死から約四百年後の王朝が崩壊(バビロニアによるユダ王国の滅亡は、紀元前586年)しても、人々は理想の王としてその再来を待望するなど、大きな影響を与え続けているのです。それが「救い主」はダビデの子孫から誕生するという信仰に発展していったのです。「メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」とあります。(ヨハネ7・42、ミカ5・1-2、サムエル下7・12-13、マタイ2・6)
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