↑ 地図は「聖書大百科・創元社」による。12部族の赤囲み は筆者
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日本キリスト教 富 谷 教 会
年間標語『主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない。』
聖句「神は神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ロマ8:28)
週 報
降誕節第六主日 2014年2月9日(日) 5時~5時50分
礼 拝
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 513(主は命を)
交読詩編 16(神よ、守ってください)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書 士師記2章6-18節
説 教 「バアルに仕える民」
辺見宗邦牧師
祈 祷
賛美歌(21) 390(主は教会の基となり)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
{次週礼拝 2月16日(日)午後5時~5時50分
説教 「女預言者デボラ」
聖書 士師記4章1-11節
交読詩篇27 讃美歌 377 517 24}
本日の聖書 士師記2章6-18節
6ヨシュアが民を送り出したので、イスラエルの人々は土地を獲得するため、それぞれ自分の嗣業の地に向かった。 7ヨシュアの在世中はもとより、ヨシュアの死後も生き永らえて、主がイスラエルに行われた大いなる御業をことごとく見た長老たちの存命中、民は主に仕えた。
8主の僕、ヌンの子ヨシュアは百十歳の生涯を閉じ、 9エフライムの山地にある彼の嗣業の土地ティムナト・ヘレスに葬られた。それはガアシュ山の北にある。 10その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。 11イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった。 12彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。 13彼らは主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えたので、 14主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるがままにし、周りの敵の手に売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった。 15出陣するごとに、主が告げて彼らに誓われたとおり、主の御手が彼らに立ち向かい、災いをくだされた。彼らは苦境に立たされた。
16主は士師たちを立てて、彼らを略奪者の手から救い出された。 17しかし、彼らは士師たちにも耳を傾けず、他の神々を恋い慕って姦淫し、これにひれ伏した。彼らは、先祖が主の戒めに聞き従って歩んでいた道を早々に離れ、同じように歩もうとはしなかった。 18主は彼らのために士師たちを立て、士師と共にいて、その士師の存命中敵の手から救ってくださったが、それは圧迫し迫害する者を前にしてうめく彼らを、主が哀れに思われたからである。
本日の説教
士師記の時代は、士師記1章1節に「ヨシュアの死後」とあり、最後の21章25節には、「そのころ、イスラエルには王がなく」とあることから、指導者ヨシュアの死のあとから、イスラエルが王制に入る前までということになります。この間は、士師記の記録を見ると、カナン地方は群雄割拠に近い状態だったことがうかがえます。
士師記は、年代的には、イスラエルが約束の地の占領を開始した紀元前1190年頃から、サウルが最初の王となった紀元前1051年頃までの物語です。この約340年間は戦いがくりひろげられる激動の時代です。
「士師(しし)」とは、イスラエルの指導者のことです。ヘブライ語で「ショフェティーム(複数形)」で「支配者たち」という意味です。「裁く者たち」「治める者たち」という意味もあります。「士師」はイスラエルを危機から救い、支配するために神ヤハウェが立てられるのですが、モーセやヨシュアのように、イスラエル全体の指導者ではなく、士師の支配は一部の部族とその周辺に限られていました。
1章と2章は、士師記全体のまとめのようになっています。この時代に何が起こったのかを全体的に説明しています。
3章から実際の士師たちの業績が記録されています。17章から、この時代に起こった出来事を描いて、イスラエルの霊的状態を記しています。
ヨシュアは、カナンの地を征服した後、イスラエルの十二部族に土地を分配しました。しかし、まだ「占領すべき地がたくさん残っていた(ヨシュア記13:1)」ので、ヨシュアが死んだ後も、彼らは戦いを続けなければなりませんでした。士師記1章から、2章5節まで、ユダ部族を始めとしていくつかの部族の戦いが記されています。
イスラエルの12部族とは、ヤコブの12人の息子たちが、部族の長となり、その子孫がイスラエルを構成する12部族となったのです。
ヤコブの最初の妻レアが産んだ息子が、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルンの6です。妻レアが産んだ息子が、ヨセフとベニヤミンの2人です。レアの召使いジルバが産んだ息子が、ガドとアシュルの2人です。ラケルの召使いビルハの産んだ息子が、ダンとナフタリの2人です。
しかし、ヨセフの代わりに、土地の分配はヨセフの二人の息子たち、マナセとエフライムに与えられました。レビ族には土地が与えられませんでした。彼らが祭司の身分ですべての部族に仕えることが定められていたからです。レビ族には48の町と放牧地が与えられました。12部族の分割地は、地図を参照ください。
本日の聖書の個所に入ります。士師記2章6,7節に、「ヨシュアが民を送り出したので、イスラエルの人々は土地を獲得するため、それぞれ自分の嗣業の地に向かった。ヨシュアの在世中はもとより、ヨシュアの死後も生き永らえて、主がイスラエルに行われた大いなる御業をことごとく見た長老たちの存命中、民は主に仕えた。」
先週の礼拝説教では、「ヨシュアと民との契約」について学びました。ヨシュアは民に、神が今までどんなに熱情をもって民を愛し守ってきたかを語った後、民が主に仕えることを選ぶのか、それとも主を捨てて異教の神に仕えるの選ぶのかと、民にせまり、何度もその決意を確かめてから、民と契約を結びました。ヨシュアと契約を結んだ長老たちは民と共に、ヨシュアの死後も、彼らが存命中は、契約に違反することなく、「主に仕えた」のです。
「主の僕、ヌンの子ヨシュアは百十歳の生涯を閉じ、エフライムの山地にある彼の嗣業の土地ティムナト・ヘレスに葬られた。それはガアシュ山の北にある(士師記2章8、9節)」。
「エフライムの山地」とは、エフライム族が定住した地域のことです。ヨシュアが葬られた「ティムナト・ヘレス」は、ヨシュア記24:30節にある「ティムナト・セラ」と同地と思われます。エフライムのほぼ中央にあります(地図参照)。
指導者ヨシュアが死に、ヨシュアと契約を結んだ民も死んで、世代が変わったあとのイスラエルの民について、次のように記されています。
「その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。 イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった。 彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。(2:13-14)」
このように、士師記2章11節以下には、別の世代になったイスラエルの民がバアルとアシュトレトに仕えたので、主を怒らせたことが記されています。「別の世代」とは,「神がイスラエルのために、アブラハムからヨシュアの時代まで、なされた数々の恵みの御業」を知らない世代のことです。
「バアル」は「主人、所有者」という意味のことばです。雷と雨をもたらす天候神、男性神で、古くからカナン地方やシリア地方で礼拝されてきた豊穣をもたらす神です。カナン・シリア地方は雨季と乾季を繰り返します。雨季をもたらすバアルと乾季をもたらす死の神モートが戦い、バアルが戦いに敗れて死ぬと乾季が訪れます。しかしやがてバアルが復活するとまた雨季がやってくると信じていたのです。これを毎年繰り返すのです。雨と豊穣をもたらすバアルの神はカナンの地各地にある礼拝所で礼拝されていました。
「アシュトレト」はバアルの配偶者で愛と豊穣の女神です。カナン人のバアルとアシュトレト信仰は、みだらな性的行為と密接に関わっていました。そして自分の子供たちを火の中にくぐらせたり、いけにえとしてささげたりしていました。農耕生活に移ったイスラエルの民にとって、バアル崇拝は大きな誘惑でした。農耕生活をすることは、カナンの先住民族の影響を強く受けてしまうものでした。農耕民にとって土地は生命を保証するものとされ、それゆえ土地に対して執着心がありました。また、農耕生活にとって最もありがたいことは豊作です。豊作をもたらす神なら無条件で拝みたくなるのです。豊作をもたらすためには、イスラエルの民はカナンの先住民に農耕に関する技術を学ばざるを得なかったのです。ところが当時の農耕技術の大部分は呪術的なものであったので、カナンの先住民から農耕技術を学ぶ際に、イスラエルの民の中に、自然の諸力を神格化した神への信仰が入り込みました。
「彼らは主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えたので、主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるがままにし、周りの敵の手に売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった。(13節~14節)」
主なる神は他の神々に従うイスラエルの民に対して激しく怒り、裁きをくだしました。イスラエルが外敵に襲われても一切助けないという裁きです。ヨシュアに率いられたイスラエルは神ヤハウェがいつも味方となり戦って下さったからこそ、カナンの強力な民との戦いにも勝利できたのです。そのことを完全に忘れているイスラエルの民に対して、一切助けないという裁きが下されたのです。
信仰を捨て異教徒の偶像礼拝に陥り、そのため神様が外敵を遣わされると、 信仰が呼び覚まされて神様に助けを求めます。神様は憐れんで士師を起こしてイスラエルを助けます。士師が治めている間は平和がもどるが、死ぬと瞬く間に、神様を捨て偶像礼拝にもどってしまいます。このような繰り返しが、士師の時代に起きたのです。
土地が自分の生活を保障するものではなく、あくまでも土地を与えた神こそが生活を保障する方なのです。イスラエルが占領した土地は神の恵みの賜物として与えられたものです。この賜物を正しく受けとめ、神に絶えず栄光を帰すことが大切なのです。ところが、人間を生かしておられる神を忘れて、豊作をもたらす土地に依存した生活に陥りやすいのが人間の弱さであり、人間の罪の姿です。造り主なる、「主のみを拝し、主に仕える」ことがどんなに容易なことでないかを、イスラエルの民の歴史を通して、私たちは知らされます。
人間が自分の生活の物質的基盤(土地、財産、仕事、金銭、頼りになる人間等)が神とすりかえられるとき、それはりっぱな偶像となるのです。神がどんなに私たちを愛しておられるか、そのために最愛の独り子イエスを与えられたか、また、わたしたちを罪と死から救い、救いと永遠の命を与えるために、御子イエスが私たちを愛し、その貴い命を与えてくださったかを知ることこそが、偶像崇拝から離れることにつながるのだと思います。また活ける神は、私たちの日々の生活も支え、導いてくださる愛に満ちたもう神であることを、証ししていかなくてはなりません。
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