富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「エマオ途上での主の顕現」 ルカによる福音書24章13~35節

2019-04-27 12:28:54 | キリスト教

              ↑ スイスの画家Robert Zund(ロベルト・ジュント)の「The Road to Emmaus(エマオへの道)」1877年作、所蔵 museum in St. Gallen(スイス)所蔵

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

     日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和に

     あずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。

     いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

 

 復活節第2主日  2019年4月28日(日)   午後5時~5時50分 

                          礼 拝 順 序

                                                司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  57(ガリラヤの風かおる丘で)

交読詩編   16(神よ、守ってください)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)ルカによる福音書24章13~35節(新p.160 )

説  教    「エマオ途上での主の顕現」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                

讃美歌(21) 325(キリスト・イェスは)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                                            次週礼拝 5月5日(日) 午後5時~5時50分 

                                             聖 書  ルカによる福音書24章36~43節

                                             説教題  「弟子たちに現れた復活のイエス」 

                                             讃美歌(21) 204 325 24 交読詩編 4

                本日の聖書 ルカによる福音書24章13~35節

  13ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14この一切の出来事について話し合っていた。15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

    28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

             本日の説教

「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。」(13~14)

  <ちょうどこの日>とは、日曜日の朝早く、婦人たちがイエスの葬られ墓を訪れた後、空の墓とイエスが復活したという天使のお告げを弟子たちに伝えた日です。二人のイエスの弟子が、エルサレムからエマオに向かって歩いていました。エマオまでの距離は<六十スタディオン>です。、すなわち11㌔ほど離れた村です。(古代オリンピックの行われたギリシャのオリンピアの競技場では、徒競走のスタート地点からゴール地点までの直線コースが作られ、1スタディオンと決められていました。このコースを持った競技場がスタディアムです。1スタディオンは185m(共同訳聖書巻末の「度量衡」による)なので、60スタディオンは11100m、約11キロになります。)普通大人の歩く速度は時速4㎞と言われているので、エルサレムからエマオまでは、歩いて3時間ほどの距離になります。エマオは、<温かいかい井戸>という意味があり、キリスト教の伝承ではアムマスとされていますが、エルサレムから30㎞もあり、遠すぎます。エルサレムから15㎞ほど北西のエル・クべイベーは昔ローマ街道が通っており、現在フランシスコ会のクレオパ教会が建っていて、エマオの地として有力な候補地です。しかし、エマオがどの位置にあるのかは明確ではありません。

 二人の弟子の一人はクレオパ(18節)で、もう一人は29節で泊まるように勧めていることから、エマオに家を持っていたと思われます。話し合っていた<一切の出来事>とは、主イエスの十字架上の処刑と復活についてを指すとみられます。彼らはイエス様の死に失望していました。そのような悲しみをもって、彼らは弟子たちの集団を離れ、故郷に帰ろうとしていたと思われます。

  「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」(15~16)

    大切な人生の導き手を失った二人の弟子は、失意のうちに、エルサレムからエマオに下る道を歩いていました。しかし、そのような道すがら、彼らの語らいの中に、復活の主が近づき、合流され、一緒に歩き始められました。主が霊的な体をもって現れ、弟子たちと一緒に歩いても、二人の目は遮られて、それが誰だか分かりませんでした。

  「イエスは、『歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか』と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。『エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。』」(17~18)

   主イエスは二人に、彼らが道々論じ合ってきた事柄の内容について尋ねました。それに対し、彼らは暗い悲しそうな顔をして立ち止まりました。二人の中の一人、クレオパは、その道連れに「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存知なかったのですか」とけげんそうに言いました。

 「イエスが、『どんなことですか』と言われると、二人は言った。『ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。』」(19~21)

 「どんなことですか」と、この旅人のさらなる問いかけに、二人はナザレのイエスのことについて語り出します。彼らは、<行いにも言葉にも力のある預言者>であるイエスに、政治的メシアを期待していたのです。そのイエスを、<祭司長たちや、議員たちは、死刑にするため>にローマ総督に引き渡して、十字架につけてしまったのです。彼らにとって最大の疑問は、神はイエスをこんな目にあわせ、そのまま今日で三日間も放置しておられるということでした。

 「ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」(22~24)

    ところが、自分たちの仲間の婦人たちが朝早く墓へ行ったが遺体はなく、天使が現れ、「イエスは生きておられる」と告げたというのです。全くの絶望の状態から、ほのかな希望へと導かれます。しかし、婦人たちの報告は<わたしたちを驚かせました>、と言うだけで、喜びはありません。復活の告知についても、<天使が告げたというのです>と言うだけで、主の復活を信じるまでには至っていません。仲間の者も墓へ行ってみたが、<あの方は見当たりませんでした>と答えるだけです。

 「そこで、イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」(25~27)

 そこで、イエスは、<預言者たちの言ったことを信じられない者たちよ>、と一喝します。それは、彼らが、イエスこそ「預言者」の力で、<イスラエルを救って下さるはず>だと考え、彼に政治的・地上的メシアを期待していたことにあります。復活のイエスは、彼らに「キリストは、必ず、苦しみを受けて、それから、栄光に入るはずだったのではないか」と、その必然性を、聖書全体を通して説き明され、二人の弟子たちの不信仰を厳しくとがめます。キリストの栄光が明らかにされるのは、復活の出来事を通してのみなのです。そして、イエスはモーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれれていることを説明しました。

 「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。」(28~29)

    一行はエマオの村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子でした。二人は、もっと旅人の話を聞きたいと願うようになり、日も傾いているので、無理にイエスを引き止め、共に泊まるために家に入りました。二人の弟子ちはイエスに「泊まって」下さいと無理に引き止めたのです。ここで重要なことは、弟子たちの自発性です。「泊まる」ということばは、「それは神との親しいかかわりを持つことを意味しています。もし弟子たちの関心が希薄であれば、それまでのことで、イエスは去って行かれたはずです。

 

  オランダの画家レンブラント「エマオのキリスト」制作年は1648年から1648 ルーヴル美術館所蔵

 「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」(30~31)

 一緒に食事の関に着いたとき、イエスは家長であるかのようにパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、二人に渡されました。その様子はイエスが弟子たちと食事をするときと全く同じです。このとき、弟子たちの<目が開けて>、旅人が主イエス御自身であることがわかりました。彼らの「目を開いた」のは聖霊の働きです。この方こそ不信仰な自分達のために、神の計画によって十字架で死んでくださり、復活されて栄光に入ったキリストだとわかったのです。心の目にはイエスだと分かりましたが、彼らの肉眼には、その姿は見えなくなりました。弟子たちがキリストであると認めるに至るのは、キリストの側からの働きかけによるものであり、決して弟子たちの自然的な認識能力によるものではありませんでした。

 「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」(32~35)

  二人は、道で話しておられるときや、聖書の説明をしてくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか、と語り合いました。聖書が正しく解釈されて、みことばが説き明かされることによって、聞く人々が「心燃ゆる経験」をするのです。そこには聖霊が働き、聞く者の心を命の言葉で満たします。二人は、今や復活された主との食卓を共にしたことによって、悲しみと絶望から立ち直っており、彼らの興奮は当然のことながら、彼らを兄弟姉妹の許へと向かわせます。二人はすぐに出発して、その日の夜のうちにエルサレムの町へ戻りました。すると、十一人とその仲間が集まっていて、本当に主は復活して、シモン・ペトロに現れたと言っていました。二人も、道で起こったことや、パンを裂いて下さったときにイエスだと分かった次第を仲間に話しました。

    エマオの二人の旅人の物語は、生ける主イエスとの出会いを求める私たちの歩みと重なります。弟子たちは、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」とイエスにとがめられました。しかし弟子たちは、去ろうとするイエスに「一緒にお泊まりください」と無理に引き留めました。復活の主は私たちの心の目を開いてくださるために、私たちが無理に願うこと、切に願うことを待っておられるのです。「求めなさい。そうすれば、与えられるのです。」(マタイ6:7、ルカ11:9)                                                             

    復活し、父なる神とともに世を支配しておられる主イエスは、常に私ちと共に歩んでくださる方であり、御言葉を語ってくださる方であり、主の食卓に招いて、私たちにパンと杯をお与えくださる方であり、私たちと出会って、祝福を与えてくださる方であります。このキリストの愛によって、私たちの心を燃やされ、生ける主イエスに出会い、その主イエスが今も生きておられることを悟るのです。

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