しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「歌と戦争」

2022年01月18日 | 昭和16年~19年
「歌と戦争」  櫻本富雄  アテネ書房 2005年発行

音楽の戦争貢献

日本にレコード会社が創設されたのは1909年の日米蓄音器商会といわれている。
コロンビアレコードの前身である。

1934年(昭和9)には次のような会社が設立されていた。
日本ビクター、日本ポリドール、キングレコード、テイチクレコード、タイヘイレコード。
レコード文化や歌謡の隆盛の烽火に油を注いだのは映画の出現であった。
いわゆる映画主題歌の出現である。
松竹映画『愛染かつら』の「旅の夜風」
東宝の『熱砂の誓い』の「馬」
松竹の『蘇州の夜』の「蘇州の夜」
東宝の『燃ゆる大空』の「燃ゆる大空」
東宝の『決戦の大空へ』の「若鷲の歌」・・・
などの主題歌を続出させた。




音楽は、戦争推進に多大の貢献をしたのである。
ところが、それらの音楽を生産した「死の音楽商売人」の責任はほとんど問題に
されていない。
「音楽挺身隊長」の山田耕筰は文化勲章を授与され、
おびただしい軍歌や戦時歌謡を作曲した古関裕而は「日本の行進曲王」などと称されている。


米英音楽の追放

1940年(昭和15)は、国中が「紀元2600年」で大騒ぎした年だが、
この年、内務省は俳優などの芸名から風紀上面白からぬもの、不敬にあたるもの、外国かぶれのものなどの追放を指示した。
俳優・藤原釜足は藤原鎌足を冒涜する名前とされ、ディック・ミネは三根耕一となった。
学校の授業から「英語」が追放される。




堀内敬三は『音楽の友』1942年新年号で、
「ここに米・英の音楽を閉め出すべきことを提唱する」とのべ
「音楽家にとっても戦いである。皇軍と共に我等はたたかわねばならぬ」と、
内務省と情報局が本格的に「敵性語」「敵性音楽」を始める前に、音楽家の方から政府の排外主義を先取りした。
「米英のジャズ音楽、米英の匂いをぷんぷんさせて、それで米英に勝とうというのか。
日本人として出直すことが先決問題だ」
レコードは音盤と呼び変えられ、
ポリドールは「大東亜」、コロンビアが「ニッチク」、キングが「富士」、
ビクターが「日本音響」に改名した。
「アロアオエ」「星条旗よ永遠なれ」「スワニー河」などを廃棄した。








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「童謡」と「唱歌」

2022年01月18日 | 江戸~明治
「童謡の百年」  井手口彰典  筑摩書房  2018年発行

童謡と唱歌

童謡と唱歌は同じものだろうか?
違うとすれば、どう違うのか?
どちらにしても、それがどうした

今の日常生活には何の関係もないことだ・・・といったところが自分を含む大多数のように思う。








2018年は「童謡誕生百年」だと言われている。
大正7年鈴木三重吉が児童向け雑誌「赤い鳥」を創刊し、そこを舞台に多くの童謡が生み出されました。
鈴木は、わざわざ「童謡」という言葉に、新しい意味を込める実践を始めた。
その背景には、子供たちに提供されていた歌、すなわち唱歌に対する鈴木の強い反発意識がありました。
 

明治政府と唱歌

明治5年近代的な学校制度である「学制」を発布します。
この学制の中に「唱歌」があり、今の「音楽」に近いものでしょう。
この科目に子供たちにうたわせる歌曲の総称としても「唱歌」の語は使われるようになりました。
明治17年までに『小学唱歌』三編を発表します。
これら3冊のなかには、今でもうたわれる「仰げば尊し」「アニーローリー」「蝶々」「庭の千草」「蛍の光」など含まれています。
多くが外国の旋律を借用したものです。

明治44年から大正3年にかけて文部省が刊行した『尋常小学唱歌』(全6冊)は、歌詞も旋律もすべて日本人によって作られた唱歌集でした。
政府の主導によって作られた唱歌集の他に、
民間で作られたものもありした。
たとえば「故郷の空」を含む『明治唱歌』、「お正月」を含む『幼稚園唱歌』、
「箱根八里」や「荒城の月」を含む『中学唱歌』などが編纂されました。

そこには重要な特徴があり「ヨナ抜き長音階」を使ったものが多い、
当時の文部省は日本の音楽と西洋の音楽を「折衷」するものとして利用しました。

第二の特徴として日本の成員たるにふさわしい国民を育てるための格好のツールとして導入された。


「わが日の本」や「皇御国(すめらみくに)」などストレートな部類や、

ちょうちょう ちょうちょう 菜の葉にとまれ
なのはにあいたら 桜にとまれ
さくらの花の さかゆる御代に
とまれよあそべ あそべよとまれ

この歌詞からは、御代、つまり天皇の治世のもとでこそ、
蝶たち(=国民)も楽しく遊べている、そんなメッセージを読み取ることができそうです。


童謡は先行する唱歌との「対決のなかから生み出された」ものであり、
『赤い鳥』に多くの童謡を提供した北原白秋も、しばしば激しい口調で非難しました。

興味深いのは、当の唱歌関係者もある程度認め受け入れている、という点です。
今日では「故郷」「紅葉」などの作詞者として知られている高野辰之は1929年、
「凡そ学校の教科書ほど自由を拘束されるものはない。
唱歌にしても、文字文体よりはじめて、終身歴史地理理科等の他のあらゆる学科と阻隔させてはならぬのである。
自由と解放と希ふ詩人が、どうしてこれに満足しよう」

童謡は、従来の教訓的で子供の心に沿わない唱歌を批判的に乗り越えようとするなかから生まれてきた音楽でしたが、
唱歌と童謡を繋いだり、また双方の創作に携わった者もいた。
たとえば、童謡「夕日」で知られる葛原しげるは唱歌集にも関わってきます。
童謡「春よこい」「靴が鳴る」の弘田竜太郎は、唱歌「鯉のぼり」の作曲者の可能性が指摘されています。
さらに音楽面においても決定的に異なっていたわけでありませんでした。

鈴木三重吉は1919年東京丸の内の帝国劇場で「赤い鳥音楽祭」というイベントを開催し、プログラムに童謡を加えた。
「かなりや」や「あわて床屋」などを歌った。
1920年「かなりや」を含む数曲をリリースした。
そこで歌唱を担当したのは少女唱歌会で、大人の歌手ではなかった。

1925年(大正14)年JOAKのラジオ放送が始まった。
初期から子供の声によって歌われた。

昭和になりレコード会社が増え、ラジオが普及した。
童謡は市井に響き、一部の限られた人から、一般大衆が日常的に聴いて楽しむものへと変質していきました。
唱歌と童謡の境界がぼやけ、区別されないようになっていった。


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