しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

除虫菊を作る

2022年01月28日 | 農業(農作物・家畜)

瀬戸内海地方を代表する風景でもあった除虫菊。
今は観光用に因島に少し残るだけ。

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除虫菊
(父の話)
畑ゆうたら「麦」「芋」「除虫菊」が多かった。

除虫菊はめんどくせぇ。(刈ったあとで)
菊の花を落とす。
植えるのは新涯の畑が多かった。
カド(家の庭)へひろぎょうた。
雨が降ったらいけんので畑には干さんようにしょうた。
どこの家にも除虫菊はつくりょうた。


砂地。
花を摘んで干しょうた。
庭にむしろをひいて干しょうた。
買い人が来て(茂平の農家から)買うていきょうた。
じく(除虫菊の幹)はくすぼらす。捨ちょうらなんだ。晩にくすぼらせば蚊やこがきょうらなんだ。

2002年6月23日


どんごろす 
除虫菊の乾いたのや、芋を入れて(畑から)戻りょうた。
2005・2・5、父の話


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除虫菊
(母の話)

学校の下の加藤さん。
干たのを買いにきょうた。けっこうにひたのはええ値で買ぅてくりょうた。
花は三べん切る。乾かしたら買いにきょうた。
除虫菊はええ相場がしょうた。
穀物はなんでもしょうた。ササゲや小豆やゴマ。
米でも残ったら売りょうた。米は買うこともできょうた。
有田の松浦でも買いにきょうた、売りに行きょうた。
今はああゆう商売しょうる人はおらん。

談・2004.9.5



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小田郡史(大正13年版)の城見村史

除虫菊は松浦岩蔵氏、明治25年東京学農社より種子購入栽培せし。


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「寄島町誌」

除虫菊は「連作を忌むこと甚だしく、連作の結果は収量を滅し、殺虫力弱し」
といわれ、
その播種は春秋の二回が可能であるが、大正期には一般に秋種が行われていた。
苗床に播種し本葉の発芽する11月ころに仮植をし、翌年の3~4月に再び仮植して秋の彼岸ころ本畑に定植し、播種の第三年目の5月下旬から6月上旬に収穫される。



(広島県因島 2011.5.13)

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岡山文庫「岡山の民族」日本文教出版 昭和56年発行 より転記

除虫菊

明治11年に和歌山県有田市より笠岡市に伝わり、笠岡・小田・浅口・玉島で栽培された。
この地域は温暖寡雨の気候で、よく適し、土壌はやせていても育つし、連作を嫌うが薄荷ほどでない。
秋の彼岸頃播種し、4月中旬から移植する。
収穫期は5月である。
根まで抜き取り、千歯こぎで花弁をこぎ落すのであるが、鎌で根刈りをして、株を残しとくと翌年収穫することができる。
花の色で価格は決まる。
花弁は筵に干され、夜は納屋や土間にいれるが重ねると蒸されるのでオエ(床)にもおかれ、菊とともに寝る。
価格の変動は著しく、朝晩で違っていた。
最高の価格は昭和27年8月。
その年を境に採算のとれない作物となり、昭和34年ごろには頗る減反した。





(広島県因島 2011.5.13)

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「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社

除虫菊

備中西南地方で栽培された。
土壌はやせていても育つし、連作を嫌うが薄荷ほどではない。

秋の彼岸ごろ、苗圃に播蒔し、4月中旬から下旬にかけての間に本圃へ移植する。
麦の土寄せをした中に、浅い溝をきり、五寸間隔ぐらいに、一本すつ根の部分だけ土をかける。
小豆・ササゲなど夏作物を収穫した跡地に、除虫菊を栽培する場合は、アゲ苗といって、苗を本圃の一部に密植しておいて、秋の彼岸頃本圃に本植えをする。
移植してからは草取りと施肥をするほか、ほとんど労働力を要しない。
収穫期は5月である。

根まで抜き取り、千歯こぎで花弁をこぎ落すのであるが、
抜き取らないで鎌で根刈をし、株を残しておくと、芽を出して生長し、翌年収穫することができる。
花の色で価格は決まるので、熟し時をよく見なければならないが、長雨にあうと、品質は落ちる。
花弁は蓆に干され、夜には納屋や土間にいれるが、重ねると蒸されるので、母屋のオエまでも広げられ、菊と共に寝るのであった。

価格の変動は薄荷よりも著しく、仲買人の朝晩の価格が違っていた。
最高の価格になったのは昭和27年8月で、1貫1.500円であった。
価格が下落すると、ゆとりのある農家では翌年まで売らないでいた。
化学薬品の普及により昭和27年8月を境に、採算のとれない作物となり、
昭和34年には頗る減反した。

価格の変動は薄荷よりも著しかった。

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除虫菊
「福山市引野町誌」 




広島県では明治27.28円頃、向島西村に植え付けられ、本格的には明治晩年ごろからで、大正期前半にかけて画期的な躍進を遂げた。
畑作物として丘陵地帯を中心に普及した。
大きく発展した理由として、
1・輸入のみとり粉の駆逐
2・殺虫剤の需要拡大
3・米国を中心とした輸出の増加
4・適地適産
5・零細農地の土地利用高度化
6・高い収益性
その後、
価格の激変の繰り返しに伴い作付面積も激しい増減を繰り返した。

最大の問題点は価格の変動であり、
生産者に共同出荷等の体制がなく発言力が皆無に近かった。
乾花は貯蔵がきくこともあって、商人はこれを投機材料としたため価格の激変作用が生じた。

戦時にはいり、昭和15年7月に薄荷などとともに統制品となり、
大戦中の除虫菊加工品は軍事物資となり、また殺虫剤(農薬)の輸入途絶に伴い国内の需要は急激に増大した。
しかし食糧増産が優先し生産確保の実効は上がらなかった。

戦後は、BHC・DDTなど合成殺虫剤の生産急増に伴い、除虫菊栽培は激減した。
また丘陵地帯に葉たばこ栽培が盛んになり、昭和40年頃には姿を消したようである。

一面に白く咲き乱れ、遠くから見ると白いじゅうたんを敷き詰めてたような畑、
手こぎ(せんば)で花を落とす収穫の作業、
筵での日干し、
花を落とした残幹を乾かし畜舎の蚊の予防にたきつめたことなど、
郷愁的な思い出に浸る人はまだまだ多いと思われる。


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井原町史

はっかと除虫菊は全町村で収穫されるという注目される特徴がみられた。
恐慌期に収穫は低迷したが、同八年から回復に転じた。

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「矢掛町史」


農産物の変遷


除虫菊は明治20年、笠岡の渡辺小平太が栽培したのが始めで、
その乾花・殺虫粉・蚊取り線香などは明治42年ごろから海外輸出品となった。
その主産地は小田・浅口であった。
除虫菊は、長日照時間、排水とか雨を適地とするので、畑作に適し
小田郡では笠岡諸島が好適地で小田郡の主産地であった。

 

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強力な合成殺虫剤DDTのブーム

「食糧と人類」 ルース・ドフリース  日本経済新聞社 2016年発行

オーストリアの大学生ツァイドラーは1874年にDDTという化学物質を合成したが、
20世紀後半、農業分野で大きな変化を引き起こすことになろうとは夢にも思っていなかった。

DDTはイエバエ、シラミ、コロラドハムシに対してすばらしい効果を発揮した。
1942年には商品化され、人類と病害虫との闘いに終わりを告げるという華々しい謳い文句とともに市販された。

DDTの威力が証明されたのは第二次大戦中のことだ。菊を原料とする除虫菊剤が使われていたが、それが品不足になるなか、
シラミを媒介する発疹チフス、蚊が媒介するマラリアから、DDTの白い粉を振りかけると、歴史上初めて発疹チフスの流行に歯止めがかかった。
マラリアの抑制にも効果を発揮した。

戦後、DDTは公衆衛生上のマラリア対策として導入された。
DDTは疾病対策に使われたあと、農業分野の市場に進出した。
人類を苦しめる病害虫を駆除できるという宣伝文句で、
家庭の庭の雑草から大草原地帯の牧場のハエまで守備範囲が広がった。
これが飛ぶように売れた。


人気の絶頂期は1960年代前半。
新しい害虫が出たり、副作用の被害が深刻化した。
蚊やハエを退治しようとDDTを噴射すれば、鳥や動物が巻き添えになった。
病害虫は進化し効果が薄れていった。
殺虫剤メーカーは絶えず新しい化合物をつくって耐性と闘わなくてはならない。

 

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