たぶん養蚕が盛んだった昭和のヒトケタ時代の新築家屋だろう。
ある農家の人に、「かつて養蚕をしてましたか?」と聞くと、
「うちは、家が小さいのでしていませんでした」との返答だった。
養蚕は仕事場が家屋内なので、家の規模も必要だったようだ。
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繭
「日本流通史」 石井寛治 有斐閣 2003年発行
繭
第二次世界大戦前の日本農業は「米と繭」によって代表された。
1930年(昭和5)年当時における養蚕戸数は全国で222万戸に達し、全農家550万戸の40%を占めた。
長野県や群馬県のような主要な養蚕地域では全農家の70%にもなる。
繭の生産額は、1933年度の統計では米の14億円に対して5億円程度に過ぎない。
しかし米の1/2は農民が自分で消費しており、販売米の1/3は地主、農民が直接販売するのは5億円足らずである。
繭は養蚕農民の手に入る。
したがって養蚕地帯の農村では繭販売による現金収入は、米収入よりはるかに多かった。
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「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版より
桑と養蚕
稚蚕は温暖な密室で飼育し、
蚕壮(そうご)になると広い場所を必要とした。
桑樹は畑とか河原に植えてある「刈り桑」と、
川や水田の岸に大木として散在している「立ち桑」とがある。
三齢までは刈り桑を桑切り庖丁で切って与え、
四齢以後は立り桑を食べさせた。
五齢期になると夜12時まで葉を与えたので、寝るときがないほどのせわしさであった。
養蚕の変遷は3回あった。
天然育、温暖育、条桑育(じょうそういく)。
大正末期から飼育法は条桑育といって、蚕に桑を枝のまま与えて飼育するようになり、幾段もの蚕棚で棚飼いした。
稚蚕は母屋の一室で密閉育として、壮蚕になって8畳のオクノマや離れ座敷に移す。
た。
養蚕業は明治時代から昭和16年頃まで、県内ほとんど全区域で行われ、中国山地の村々が盛んであった。
最盛期は大正末から昭和初め頃まで、昭和10年頃までは比較的盛んであった。
ただし、タバコは蚕に害があるので葉タバコと養蚕は一緒にはできなかった。
年に3~4回飼育した。
最盛期には母屋の室だけでなく、ニワ(土間)でも飼育した。
人は寝るところが無く、縁側やクドの横・蔵などに寝たという。
(「真備町史」昭和54年)
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「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町 昭和59年発行
繭の糸
養蚕をする家では、年に3~4回は飼い、天井に空気穴をとりつけたり、蚕が繭を作る時期には、家族は寝る場所がない位だったという。
繭はほとんど売った。
上繭・中繭・クズ繭、玉繭(二つくっつく)があった。
自家用にクズ繭・玉繭を手引きした。
この糸がスガ糸といい、木綿のガス糸と混繊することが多かった。
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(神島村誌)
養蚕
糸つむぎ
幕末から明治になって養蚕が普及、綿畑は桑畑へとバトンタッチ、
生糸の輸出が増え、養蚕は盛んになり、春蚕、夏蚕、秋蚕と忙しく、
寝るところもないほど蚕棚をつくった。
これは大変な収入源にもなった。
まゆを10日置くと蛾になるので、早めに木灰(あく)叉は炭酸を入れて大きな釜で炊いて、3~8個の繭の糸を合せて一本にする。
繭の中のさなぎは飼料にした。
スガ糸
蚕の糸をスガ糸といって、織ると木綿と違って良い着物ができた。
織る前に糸を練るため木灰のあくで煮て織り、この白反を染物屋で好きな色に染めてヨソイキとした。
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(真備町史)
養蚕業
明治22年頃より当地方には発達した。
しかし明治26.27年には繭価格低落にして衰え、明治37.38年頃より稚蚕(ちさん)の共同飼育を奨励してから、失敗者も減じ、明治末年頃より次第に盛んとなった。
繭種は白繭のみで、黄種は全く飼育せず、繭の売り出し先は専ら富山県である。
桑の種類は「魯桑」(ろそう)が最も多い。桑の仕立ては根刈り式。
春蚕は病気にかかり易く成績劣れりとある。
大正時代は右の如く僅かであったが次第に盛んとなり昭和4~5年頃をもって最高潮となり農産物価格の約一割に達した。
その年頃より農業恐慌、次第に戦時統制、化学繊維の進出などによって衰退した。
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(美星町史)
養蚕
明治の中頃、絹織物や生糸がアメリカ合衆国その他に輸出商品として伸びてきた。
明治政府は国策として、岡山県でも養蚕を保護奨励する行政措置を執るに至った。
明治21~22年頃から火力を使用しての加温飼育が始まった。
明治38年稚蚕共同飼育奨励金下付規定が公布された。
当地桑園は根刈り仕立てで稚蚕(1.2齢)用と壮蚕(5.5齢)用に分けて、品種も20数種あった。
蚕種は町外から購入、
飼育は春蚕・初秋蚕・晩秋蚕の年三回が普通。
適温は22~25.6度、屋内で蚕箱による棚飼である。
「春蚕の稚蚕は家の6畳間を目張りし、蚊帳で二重に囲み、排気窓をつくり、木炭・薪・練炭等で加温し、硬軟適度の桑葉を一枚摘みとし、保蔵して、細切りして、多いときは一日10回以上給与し、発育するに従い毎日拡座、3齢以上は毎日一回の除沙(食い残しの葉と糞を取り除く)など、昼夜をわかたぬ激しい労働の連続である
稚蚕期は概ね女性の仕事であるが、壮蚕期になると大量の桑の取り入れ・運搬、重い蚕箱の出し入れ、給桑作業などで家族の全労働力を集中せねばならぬ。
やがて塾蚕(繭をつくりはじめ)になると一匹づつ別の箱に移す、この時は一家で足りず人夫を雇った。
この頃は田植えと麦刈りと、年間労働力のピークであった。」
仲買人による個人の庭先取引から、昭和10年頃には会社との特約取引をするようになった。
会社は郡是・片倉の大手から笠岡・矢掛・井原の地元業者も多かった。
しかし、この特約取引の頃から貿易は頭打ちとなり生産は減少しはじめた。
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岡山文庫「岡山の民族」日本文教出版 昭和56年発行
養蚕
桑木は畑(定畑)とか河原、焼き畑などに植えている「刈り桑」と、
川や水田の岸に大木として散在している「立ち桑」とがある。
三齢までは刈り桑を、刈桑包丁で切って与え、四齢以後は立ち桑を食べさせた。
五齢期になると、夜12時ごろまで葉を与えたので、寝る時がないほどのせわしさであった。
大正末期から飼育法が条桑育といって、蚕に桑を枝のままで与えて飼育するようになり、
幾段もの蚕棚で棚飼する。
稚蚕は主屋の一室で蜜閉育として、壮蚕になったら八畳のオクノマとか離れ座敷へ移すのであった。
岡山県内全地域で行われたが、葉タバコ栽培村では養蚕と共存することはなかった。
最盛期は大正末から昭和5年ごろ。
最盛期には年に3~4回飼育し、主屋の室だけでなく土間にも飼育したので寝るところがなく、縁側や蚕棚の間や倉に寝たという。