しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

養蚕業その②お蚕様

2022年01月24日 | 農業(農作物・家畜)
屋根の上に、さらに小さな換気屋根の家が、笠岡市にもいくらか見ることがある。
たぶん養蚕が盛んだった昭和のヒトケタ時代の新築家屋だろう。

ある農家の人に、「かつて養蚕をしてましたか?」と聞くと、
「うちは、家が小さいのでしていませんでした」との返答だった。
養蚕は仕事場が家屋内なので、家の規模も必要だったようだ。

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「日本流通史」 石井寛治 有斐閣 2003年発行



第二次世界大戦前の日本農業は「米と繭」によって代表された。
1930年(昭和5)年当時における養蚕戸数は全国で222万戸に達し、全農家550万戸の40%を占めた。
長野県や群馬県のような主要な養蚕地域では全農家の70%にもなる。
繭の生産額は、1933年度の統計では米の14億円に対して5億円程度に過ぎない。
しかし米の1/2は農民が自分で消費しており、販売米の1/3は地主、農民が直接販売するのは5億円足らずである。
繭は養蚕農民の手に入る。
したがって養蚕地帯の農村では繭販売による現金収入は、米収入よりはるかに多かった。



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「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版より

桑と養蚕

稚蚕は温暖な密室で飼育し、
蚕壮(そうご)になると広い場所を必要とした。
桑樹は畑とか河原に植えてある「刈り桑」と、
川や水田の岸に大木として散在している「立ち桑」とがある。
三齢までは刈り桑を桑切り庖丁で切って与え、
四齢以後は立り桑を食べさせた。
五齢期になると夜12時まで葉を与えたので、寝るときがないほどのせわしさであった。


養蚕の変遷は3回あった。
天然育、温暖育、条桑育(じょうそういく)。
大正末期から飼育法は条桑育といって、蚕に桑を枝のまま与えて飼育するようになり、幾段もの蚕棚で棚飼いした。
稚蚕は母屋の一室で密閉育として、壮蚕になって8畳のオクノマや離れ座敷に移す。
た。
養蚕業は明治時代から昭和16年頃まで、県内ほとんど全区域で行われ、中国山地の村々が盛んであった。
最盛期は大正末から昭和初め頃まで、昭和10年頃までは比較的盛んであった。

ただし、タバコは蚕に害があるので葉タバコと養蚕は一緒にはできなかった。
年に3~4回飼育した。
最盛期には母屋の室だけでなく、ニワ(土間)でも飼育した。
人は寝るところが無く、縁側やクドの横・蔵などに寝たという。




(「真備町史」昭和54年)


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「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町  昭和59年発行

繭の糸

養蚕をする家では、年に3~4回は飼い、天井に空気穴をとりつけたり、蚕が繭を作る時期には、家族は寝る場所がない位だったという。
繭はほとんど売った。
上繭・中繭・クズ繭、玉繭(二つくっつく)があった。
自家用にクズ繭・玉繭を手引きした。
この糸がスガ糸といい、木綿のガス糸と混繊することが多かった。


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(神島村誌)

養蚕
糸つむぎ


幕末から明治になって養蚕が普及、綿畑は桑畑へとバトンタッチ、
生糸の輸出が増え、養蚕は盛んになり、春蚕、夏蚕、秋蚕と忙しく、
寝るところもないほど蚕棚をつくった。
これは大変な収入源にもなった。
まゆを10日置くと蛾になるので、早めに木灰(あく)叉は炭酸を入れて大きな釜で炊いて、3~8個の繭の糸を合せて一本にする。
繭の中のさなぎは飼料にした。

スガ糸
蚕の糸をスガ糸といって、織ると木綿と違って良い着物ができた。
織る前に糸を練るため木灰のあくで煮て織り、この白反を染物屋で好きな色に染めてヨソイキとした。

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(真備町史)

養蚕業

明治22年頃より当地方には発達した。
しかし明治26.27年には繭価格低落にして衰え、明治37.38年頃より稚蚕(ちさん)の共同飼育を奨励してから、失敗者も減じ、明治末年頃より次第に盛んとなった。
繭種は白繭のみで、黄種は全く飼育せず、繭の売り出し先は専ら富山県である。
桑の種類は「魯桑」(ろそう)が最も多い。桑の仕立ては根刈り式。
春蚕は病気にかかり易く成績劣れりとある。
大正時代は右の如く僅かであったが次第に盛んとなり昭和4~5年頃をもって最高潮となり農産物価格の約一割に達した。
その年頃より農業恐慌、次第に戦時統制、化学繊維の進出などによって衰退した。

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(美星町史)

養蚕

明治の中頃、絹織物や生糸がアメリカ合衆国その他に輸出商品として伸びてきた。
明治政府は国策として、岡山県でも養蚕を保護奨励する行政措置を執るに至った。
明治21~22年頃から火力を使用しての加温飼育が始まった。
明治38年稚蚕共同飼育奨励金下付規定が公布された。
当地桑園は根刈り仕立てで稚蚕(1.2齢)用と壮蚕(5.5齢)用に分けて、品種も20数種あった。

蚕種は町外から購入、
飼育は春蚕・初秋蚕・晩秋蚕の年三回が普通。
適温は22~25.6度、屋内で蚕箱による棚飼である。
「春蚕の稚蚕は家の6畳間を目張りし、蚊帳で二重に囲み、排気窓をつくり、木炭・薪・練炭等で加温し、硬軟適度の桑葉を一枚摘みとし、保蔵して、細切りして、多いときは一日10回以上給与し、発育するに従い毎日拡座、3齢以上は毎日一回の除沙(食い残しの葉と糞を取り除く)など、昼夜をわかたぬ激しい労働の連続である

稚蚕期は概ね女性の仕事であるが、壮蚕期になると大量の桑の取り入れ・運搬、重い蚕箱の出し入れ、給桑作業などで家族の全労働力を集中せねばならぬ。
やがて塾蚕(繭をつくりはじめ)になると一匹づつ別の箱に移す、この時は一家で足りず人夫を雇った。
この頃は田植えと麦刈りと、年間労働力のピークであった。」

仲買人による個人の庭先取引から、昭和10年頃には会社との特約取引をするようになった。
会社は郡是・片倉の大手から笠岡・矢掛・井原の地元業者も多かった。
しかし、この特約取引の頃から貿易は頭打ちとなり生産は減少しはじめた。

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岡山文庫「岡山の民族」日本文教出版 昭和56年発行 


養蚕

桑木は畑(定畑)とか河原、焼き畑などに植えている「刈り桑」と、
川や水田の岸に大木として散在している「立ち桑」とがある。

三齢までは刈り桑を、刈桑包丁で切って与え、四齢以後は立ち桑を食べさせた。
五齢期になると、夜12時ごろまで葉を与えたので、寝る時がないほどのせわしさであった。

大正末期から飼育法が条桑育といって、蚕に桑を枝のままで与えて飼育するようになり、
幾段もの蚕棚で棚飼する。
稚蚕は主屋の一室で蜜閉育として、壮蚕になったら八畳のオクノマとか離れ座敷へ移すのであった。

岡山県内全地域で行われたが、葉タバコ栽培村では養蚕と共存することはなかった。
最盛期は大正末から昭和5年ごろ。
最盛期には年に3~4回飼育し、主屋の室だけでなく土間にも飼育したので寝るところがなく、縁側や蚕棚の間や倉に寝たという。





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養蚕業その①桑園

2022年01月24日 | 農業(農作物・家畜)

近所の散歩道で、川の土手などに桑の木をよく見る。
井笠地方にも、いたるところに自生したかのように残る桑の木がかつての盛んだった時をしのばせている。


(父の話)
談・2000.6.25
養蚕
茂平には・・・・なかった(戦前戦後)
大冝や用之江のものは作りょうた。
用之江との峠の畑に桑畑があった。それは地主が用之江の人。
茂平には蚕をする人はおらなんだ。

(おば=父の妹の話)
養蚕
茂平も城見もおぼえておらん(養蚕はなかった)。
小平井へ嫁に来た時。姑が「飼ようた」ゆうてようた。
(嫁に行った時には、既に養蚕はしてなかった)
「その頃はのう、上座にも寝られん。畳をあげて・・」
寺で寝ょうたん?じゃろうか。
あれをせんとお金になるもんがなかった
養蚕をせんと食べていかれんようた。
茂平の山に桑畑が一本あった。(弟の)まさしが「実を食べれる」、いってまさしと食びょうた。



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小田郡史(大正13年版)の城見村史
蚕業
明治22.23年頃より創起し、明治30年頃飼育せるもの10余戸を算せしが、麦稈青刈製造の勃興するにおよび跡を絶つに至れしが、やや養蚕に心を傾けんとする傾向あり。

城見村の養蚕戸数
『岡山県統計書』
養蚕戸数 繭数量(貫) 繭価格(円)
昭和3年 69 871 5522
昭和5年 80 1100 4268
昭和7年 74 661 1784

戸数に茂平はなし。(用之江と大げのみ)


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井原市

「井原市史Ⅱ」 井原市史編纂委員会  平成17年発行

桑園

明治23年(1890)の桑園面積を基準にした場合、昭和4年(1929)は全県で8.9倍に面積が拡大している。
後月郡は37倍、
小田郡は20倍にもなってもいる。

桑畑の畑地に対する比率は昭和4年の全県28%。
後月郡27%、小田郡22%と県平均に近い。
全県の桑園に占める比率を見ると、小田郡が8.2%、後月郡が4.2%であり、小田郡は県内でも桑園面積の広い地域であった。
岡山県の場合、養蚕はあくまで副業であり、水田率の高い地域が桑畑の対畑地比率が高い傾向にある。
つまり畑地の比率の高ければ、畑地で食料生産をしなければならず、桑園の拡大には限界があった。



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矢掛町

「矢掛町史」

最盛期は昭和10年前後と思われる。
このころは、矢掛町の8割近くの農家が養蚕をしていた。
特に三谷から川面、中川にかけての小田川の自然堤防上は桑畑に極めて適した土地であった。
小田川の氾濫によって運ばれた肥沃で排水良好な砂が桑の育成に適し、また洪水時に冠水しても流失の恐れがなかった。
農家は座敷の畳をあげ、養蚕棚を設けて養蚕した。
桑の葉を一枚ずつ収穫し、蚕に与え、繭をつくる直前にまで成長した蚕を夜を徹してよりわけるなど極めて労働集約的な作業が行われた。

「矢掛町史」
養蚕

明治7年、小田郡笠岡村に山陽製糸社が創立したこともあり、
小田、後月郡一帯の小田川水系には桑を植える者が増えてきた。
砂礫の多い未利用の川原に桑が栽培された。
明治22年頃は中川村、山田村は養蚕の中心地になっていたようだ。
明治30年頃麦稈真田が盛んになり、
亜硫酸ガスが蚕や桑畑に被害を与えることもあり不振になった。
大正7、8年頃繭は下落し、生産者が減少して、かわりに除虫菊、薄荷の作付が増えた。


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金光町

「金光町史」

金光町の養蚕の歴史はまだはっきりつかめていない。
阿坂の西山友茂は「昭和2年頃私が始めた。父の代はやっていなかった」という。

桑の栽培には河川敷利用でなく、ほとんど傾斜畑利用である。ここでは養蚕は葉タバコに追われていった。
昭和12年頃が葉タバコと養蚕の転換期となっている。
蚕は春蚕と夏秋蚕がおもに行われ、人によれば晩蚕も行われていた。



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和気郡「佐伯町史」

佐伯町

生糸の輸出が好調の為、佐伯地方にも養蚕を中心とする農家が増えた。
すなわち、大正3年(1914)から大正8年までに一挙に4倍はね上がった。
水田を桑畑にするもの、畑の多いところは一面桑畑になった。
まゆ生産は年3回もできるという好条件で農村経済を大きくうるおした。




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福山市

「福山市史 下巻」福山市史編纂会 昭和58年発行

養蚕業の発展を拒む要因

大正期に川北・山野・中条・加茂の諸村に乾繭場を設け、大正11年駅家村に繭市場を設けた。
しかし、いっそうの発展を阻む要因も存していた。
それは生糸が海外の需要に依存し、海外の好不況が繭価の高低に決定的に作用していたこと。
および「小農」の農家副業の一環として行う零細規模の養蚕業として成立していたためである。

とくに養蚕業が主として桑の自給と結合しており、食糧自給を建前としていた当時の農家においては、
桑栽培に大きな限界を有していた。
また労働力の面においても、基本的には自家労働力に依存している限り養蚕業の発展には大きな限界があった。

養蚕業は世界大恐慌(昭和5~7)の影響によって衰退し、その後一時回復するが、第二次大戦の勃発によって急速に衰退し、
桑園は食料増産のかけ声によって掘り起こされ、薯・麦畑等に変わってゆくのである。





(「矢掛町史」)


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「昔のお仕事大図鑑」 日本図書センター  2020年発行
養蚕農家
大正から昭和初期にかけて、生糸は日本の重要な輸出品であったため、
日本各地の農家が専業や副業で養蚕をおこない、収入を得ていました。
桑を畑で育て、日に何度も桑の葉を摘んでカイコに与えなくてはいけませんでした。
カイコは35~45日ほどで繭となり、仲買人を通して製糸業者に売られました。

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「尋常小学校ものがたり」  竹内途夫  福武書店 1991年発行

養蚕を手伝う

米と麦だけでは食っていけない百姓は、年三回の養蚕に精を出した。
三回とは春・夏・秋の三期に飼う蚕のことで、春蚕は麦の収穫と、
秋蚕は稲の取入れとぶつかった。
猫の手も欲しい程の忙しさで、小学生の手を当てにあてにするのは当然だった。

桑摘みは、小さな籠を脇に、一枚一枚を葉柄のところで摘み切るのだから、なかなか要領がいった。
葉柄を残すのは次の発芽を損なわないためだった。
春蚕の桑は、それほど手数はかからなかった。
木そのものを更新するため、株のところで切って持ち帰り、家でもいだからである。
春蚕のように、家でもぐときは一家総がかりだった。

蚕の幼虫は手につかむのは嫌だったが、半透明になって熟蚕を拾い出すのは、イヤでも作業を手伝った。
日ごと夜ごとの丹精がみのって、今日はうれしい繭もぎである。
今までの陰鬱な気分は一変して急に明るくなる。
母屋の部屋の畳をあげてお蚕様に提供し、部屋は糞だらけ、ろくろく眠れもしなかった生活から解放されるのだから、うれしくなるのも無理はなかった。
それに繭を渡して若干の現金が入る今日は、正月と盆が重なったようなものだった。


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コメント (1)
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