しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

慰問団と慰安所④女衒(ぜげん)

2018年05月30日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「人物日本の女性史」集英社・昭和53年発行
「からゆきさん」より転記

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女衒(ぜげん)
(明治中期ごろ、島原天草)
12、3才になると男も女も奉公に出した。
少女の働き場所と言えば子守が女中ぐらいであった。
貧しい娘たちが女衒(女を誘拐することを職業にしている男)にねらわれた。
女衒たちは立派な身なりをして、貧しそうな娘を見ると道端などで話しかけた。
女衒が狙うのは15.16才の少女たちであった。
「仕事が楽で、給料は3~4倍もらえ、仕送りが沢山できる」
「昼間働き、夜は裁縫や編み物を習わしてくれる」
と出鱈目を並べ、もの優しく話しかけた。

女衒たちは村々をまわって歩き、親をさそうこともあった。
貧しい親は、どうせ奉公に出さなければならない娘なので、つい金に手をつけてしまう。
村の娘はさそいあわせて、数人がいっしょに村を出ることもあった。

外国(上海・香港・シンガポール等)に着くと、お化粧し、三度三度白いご飯を食べさせてもらった。
娘たちが食べたご飯も、宿も、無料ではなかった。船員の買収費や、見張り番もみんな計算され、娘たちの借金として背負い込まされた。

せりにかけられ、売られ、借金はさらに水増しされた。

妓楼に売られも、まだ女中と信じたり、売春を拒否する娘には計算書をつきつけ、「この借金を払いさえすれば自由にしてやる」と言った。

楼主は休日を与えなかった。
からゆきさんたちは一晩中客をとらされた。
生理日は膣の奥に海綿をつめて客をとった。性交のたびに、性病をため洗浄液で局部を消毒し身体を冷やした。

マラリヤその他風土病や結核が多かった。立つことができる間は客をとらされた。
倒れると僅かな食べ物でほっとかれた。
享年は19、17,20とか、20歳以下である。
つまり30歳まで生きのびた女は数少ないという。

亡くなったからゆきさんの後には、また新しく誘拐されたからゆきさんが連れてこられた。
その頃、東京の吉原では南方へ売るとおどされると、怖れてふるえあがったという。


日露戦争は朝鮮・満州へつれていかれるようになった。
日本人の多くなった地域には、必ず料理屋、妓楼が開業して日本人の女が働いていた。
京城には、公認娼婦150~160人、非公認の娼婦1.000人以上になった。
大連に遊廓ができ、芸者160~170人、酌婦283人、娼妓113人、支那人娼妓76人、無許可・無届の売春婦は想像もできないと言われた。

盧溝橋事件後、日本の軍隊が駐屯して軍司令部ができると、間もなくして慰安所ができ、慰安婦と言う名の売春婦が送られてきた。

コメント
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