しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

慰問団と慰安所②麦と兵隊

2018年05月18日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「従軍歌謡慰問団」馬場マコト 白水社2012年発行 より転記

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 7月7日の盧溝橋事件以来、朝日新聞が「皇軍慰問資金」を募集していた。
その総額が32万円にもなったという。戦争に対する国民のなみなみならぬ想いを知らされる数字で、
「今回、更に軍当局の援助を得て北支戦線および中支戦線へ慰問映画班ならびに慰問演芸班を派遣することに決定せり」

北支那・・・金語楼・アチャコ・ほか
中支那・・・石田一松・エンタツ・エノスケ・ミスワカナ・神田ろ山・林正之助ほか

兵隊落語で売り出し中の金語楼が団長で、エンタツ・アチャコがそれぞれに新しい相方と北・中支に行くという仕掛けのうまさが吉本興業らしかった。
吉本社長の林正之助は戦争が始まると同時に、一冊10銭の「読む漫才=皇軍慰問特選漫才集」を企画した。
慰問袋に入る薄さと手軽さが好評で、前線の兵士に人気を巻き起こした。兵士が欲しがる慰問品では、キャラメルに次いでいつも上位を占めた。
新聞記事は最後をこう結んだ。
「わらわし隊、いよいよ、1月15日出発」

わらわし隊北支班は、1938年1月15日、下関から大連に出発した。
大連で慰問演芸後、北京丸に乗って天津へ向かい、石家荘、彰徳、太原、ユジと中国奥深く入り込み、寒さに震え、死骸に脅えながら、慰問演芸をつづけた。
2月12日、天津に戻り約1ヶ月の公演を終了した。


わらわし隊中支慰問班は
長崎から上海に出発した。
3ヶ月の激戦後、前年11月12日に日本軍の手に陥落したばかりの上海の荒廃した様子に、一行は衝撃を受けた。
帰国後発売された『皇軍慰問の旅 わらわし隊報告記』で石田一松は「町はボロボロだった」と書いた。
一週間の上海滞在で21ヶ所の慰問を行った。
エンタツは朝日新聞の取材に「こんなに喜ばれるのは初めて。こんなに引っ張られては僕の細い腕がちぎれそうです」

エンタツ、エイスケ、一松、林正之助の四人は戦闘機で上海から南京に向かった。
飛行服を着てパラシュートまで背負った。ピストルを渡された。天蓋のない操縦席は吹き晒しで、怖さと寒さに脅えた。

ミスワカナの芸は、戦場各地でもっとも受け、笑いと共に迎えられた。
男尊女卑が当然の戦前に、相方で夫である玉松一郎を、テンポよく大阪弁で言い負かす可笑しさがあった。
一郎は反論もできず、ただ立ち尽くし「それは、それは」と繰り返すと、兵隊たちは手を叩いて喜んだ。
上官の言うことが絶対の軍隊にあって、日ごろ言えない不平不満を、兵隊たちに変わってぽんぽんと言い返す快感が、ミスワカナの話芸にはあった。

朝日新聞の成功に東京日日新聞もさっそく慰問団の企画を立てた。
慰問団長・東海林太郎、漫才、浪曲、曲芸師を加え陸軍省後援「在満皇軍勇士芸術慰問団」が新聞紙上で華々しく伝えられた。
東海林太郎は陸軍から呼び出され「いやしくも皇軍を慰問するに、日ごろ着ている燕尾服はやめていただきたい」
たずねると、
「ばかもん。この非常時に敵国の服を着ていいと思っているのか」

釜山から鉄道で満州に入った。
ハルビン、チチハル。チチハルからは軍のトラックで黒竜江に向かった。黒竜江に沿った黒河で「国境の町」を歌った。兵士たちの嗚咽で、太郎は歌いつづけることができなかった。


日野葦平は杭州にいて芥川賞が決まった。委員の小林秀雄が杭州まで来て授賞式を行った。
5月4日から徐州作戦に参加した。
5月16日夜襲を受けた。砲弾と負傷者のうねり声の中で夜が明けた。

麦畑の中を歩きつづけた。
どこまでつづいているのか想像もつかない。大麦、燕麦、小麦の海だった。
5月22日、葦平は上海に帰り、帰国後『麦と兵隊』を発表した。
9月に出版されると、120万部の大ベストセラーになった。
国民はだれもがなまなましい戦地の現実を知り、興奮したがっていた。
そこへ陸軍報道部が眼をつけた。
ポリドールの制作部長・藤田正人(まさと)は売れっ子の作詞家でもあった。
小説と音楽の一体化は成功すると直感した。
~徐州徐州と人馬は進む 徐州居よいか住みよいか・・・~
東海林太郎は「歌う兵士」の座をゆるぎないものにし、
藤田まさとは、「股旅もの」ジャンルとともに「前線歌謡」というジャンルを切り拓いた。
東海林太郎の歌は戦況の深まりとともに、奥深くへ進攻していった。






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