しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

慰問団と慰安所③慰安所

2018年05月19日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
父の話しによると
駐屯地に慰安所はあり、慰安婦は
日本人・・若くない(国内の遊郭からくる) 高い
朝鮮人・・若い 安い 日本語カタコト
中国人・・若い 安い 日本語駄目
ほかに
慰安所の外で中国人がいた。いちばん安いが、安全地帯でない。


人物日本の女子史11巻 「からゆきさん」池田みち子 昭和53年発行より転記


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日本人のいるところ何処にでも日本人の経営する花街があり、妓楼があった。
但し、日本人売春婦が相手にしたのは現地人ではなく、在留日本人であった。
かつては15,16歳の少女が女衒(ぜげん)にだまされて密航させられたが、日本内地の遊郭で借金がかさんで困っている娼婦がつれていかれたようである。

昭和12年(1937)
盧溝橋事件が勃発して以来、日本の軍隊は中国各地を攻撃して戦線を拡げた。
日本の軍隊が駐屯して軍司令部ができると、間もなく慰安所ができて、慰安婦が送られてきた。
日本人の女性だけでなく、朝鮮人の女も現地の女もいた。
慰安所が妓楼と違うのは、日本軍の直接の保護下にあって、慰安婦は日本の軍人だけを相手にしたことである。
兵隊が慰安所の前に並んで順番を持っているという話を聞いたことがある。慰安婦は食事をする閑がないので、寝たまま握り飯を食べたという話も聞いた。
昭和13年、
私は漢口にいた。街を疾走してきたトラックに、女が満載されていたのだ。トラックの中にたち、派手な着物をだらしなく着て、白粉気はなく、虚ろな目をして、疲れ果てた顔をしていた。
漢口で慰安所を開くか、もっと前線に送られるかだったろう。

日本人海外売春婦が完全に一掃されたのは昭和20年、大戦で負けてからである。
慰安婦たちも、慰安婦以外の売春婦たちも、内地へ引き揚げてきた。

日本内地で売春防止法が施行され、妓楼が取り潰されたのは今から僅か19年前であた。この時も反対する勢力があった。
つまり一般婦女子を性の被害から救うことができるという差別の考え方であった。


コメント
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