しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

木綿橋(もめんばし)

2016年07月16日 | 父の話
談・2000.10.30


もりさ方に大きい船をもっとった。
雁木のところへ茂平中の果物をもってきて、それで積んで福山へ晩に着く、荷を揚げる。
宿があるんじゃ。
船宿が。
それで泊まって、明けの日に戻ってきょうた。
泊まる時にゃ、活動写真を見たりしょうた。

夏の果物が出る時は二日に一回ほど行きょうた。

3~4人行って、市場へよいしょ、よいしょ、運ばにゃあいけん。
市場のもんも取りにくる。

3~4軒の店へもっていく。
いしかわ、はしもと、いまがわ
ゆう茂平の専属のような市場があった、それに売ってもらようた。
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用之江の山陽自動車教習所

2016年07月16日 | 父の話
昭和40~45年頃(と思うが)用之江に自動車教習所があった。
時は城見の家庭に自家用車所有の勃興期。
この教習所の利点は近い・安いで
泣き所は岡山まで実技試験に行く必要があった。
自動車学校の普及により各地にあった自動車教習所は次第に駆逐された。

談・2000.10.30


大冝のときさんがやりょうた。

あそこは、個人個人の山と畑があった。
鋼管ができるころドロを捕ってへいたんになった。
そこを借りとった。

学校ができたんで、いかんようになった。

それで止めたんで持っとるもんに返した。
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福山空襲

2016年07月15日 | 父の話
談・2000.8.6

(福山空襲は)
岡山から、あっちの方が明るう見ようるのう、ようた。


(福山空襲・母の話)

真っ赤になった。
だいぶ近くまで燃えとるゆうのはわかりょうた。


(津之下空襲・母の話)
津之下のはやれんきた感じがした。
ぷつっと降りてきた。。。。
忘れられん。
ありゃあよう忘れられん。


(高松空襲は)
高松の時は(福山より)もっと明る。ぼーと明るうなった。



(岡山空襲は)
奉還町と蕃町は燃えなんだ。
ミッションスクール(清心)があったから燃えなんだようた。



(広島は)
原爆の時は岡山からも応援に行った。



防空壕

防空壕は家ごとに皆ほとった。
こまい(4~5人も)入れん。

(母)どこの家にも掘とった思う。
掘れぇゆうことじゃったけえ。
防空頭巾と上に綿をいれたかけるもんをもっとった。



黒塗りの家

飛行機から白ぉ見えたら攻撃目標になる言わりょうた。
黒ぉ塗ったらわかるまあ、それで
(雑に塗っていったのは?)
うるそう言われるので、しょうことなしに塗っとった。
それで雑にしとる。

せんもんもおった。
罰則はなかった。みんなで気を付けてやりょうた。


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岡山空襲の翌朝

2016年07月15日 | 父の話
談・2003.8.14


男は脚絆を巻いて、西川に浮いとった。
窒息して死んどる。(焼けどや傷はない)
よっけい死んどった。

年寄りの中尉の軍医さんがおったが、(空襲翌日にも)帰ってこなんだ。
それで探しにいった。
そしたら息子といっしょに死んどった。川の中で。
息子は六高から玉野の造船所に挺身隊で行っとった。
若いもんが親を助けようと、一緒に死んどる。
息子だけならどうゆうことはない、逃げる(若者だけの死者はまったくいなかった)。

そこで死体を焼いて弔ようたら飛行機が飛んできた。
撃ってくるかと思った。
見に来た。
アメリカじゃあ嘘じゃあない。(空襲した跡を)確認しにきて、それを発表しようた。

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食糧の供出と配給

2016年07月15日 | 父の話
談・2000.8.6


横流しをせんように、
役場が家分と余りを決め・・・所有地と家族数で、だいたいわかる・・・出すように指導しょうた。
番をして横流し、ヤミへいくものはひっとりつかまようた。怒りょうた。
大江にいるとき何人もつかまえ、没収しょうた。
戦時中にゃあ、そうゆうことばっかりやりょうた。

出せば代りに配給物資がありょうた。
鍬やこ。
地区が供出して、配給は地区へ政府から配給がありょうた。

出すのは米・麦で、他はない。出食だけ。雑穀やこはない。


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笠岡農道空港から送るもの

2016年07月14日 | 父の話

談・2000.8.6

(せっかく出来た空港を利用し、茂平からも何か大阪へ出荷したのか?)


茂平からでなく、笠岡市農協として送っとる。
イチゴが主じゃ。
(今は?)
イチゴぐれいなもんじゃろう。(早い時期の・出始めの)イチジクもあった。
(茂平以外では)バラじゃろう。

こっから、岡山へ
岡山から(大阪の)八尾へ。そっから神戸やこへ。
それじゃから誰も送るまあ。
ぼっこう時間が違うまあ。

自動車の方が早おなった。それで誰も使わんようになった。

東京へも八尾から送りょうた。(けど、トラック便の方が早い・安い)

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茂平の龍王さま(りゅうおうさま・りおうさま)

2016年07月14日 | 父の話
談・2000.8.6


あののう、雨ごいようたんじゃ。
あきらさん方の前に柱があったろう。
門の柱の右っかわへあるんじゃ。
昔はあそこで拝みょうたんじゃ。
(※「あそこ」とは干潮時以外は海の中)
みんなよってから、ところの神主をよんで拝みょうた。
(雨乞いを拝む範囲は)茂平中(もびらじゅう)。
雨が降らん時は、(神頼みが)好きな人が寄って、よう拝みょうた。

この頃は雨がよう降りだしたんか、拝むのは減った(が、行事としては)続いておる。
毎年、するんじゃ。
それ以外に(日照りが多い時)あそこで祈祷する。みんな寄って雨乞いする。

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疎開家族

2016年07月14日 | 父の話

談・2004.7.4


疎開家族

(※終戦後、焼け出された一家が住んでいた話
管理人の、祖母の妹と、その子2人が同居していた)

家が焼けてしもうて、家の裏へ、こまい処へ住んどった。
旦那さんはええ人じゃったが、早う死んどった。

(軍で)姫路へ居ったとき、神戸の長田であのへんゆうのは聞いとった。
戦争で神戸が危ないゆうので(家が焼ける前に)疎開してきた。

一人で疎開しとったが終戦後子供2人が復員(かえって)きた。
狭ぉても母と一緒の場所で寝るゆうて三人で寝とった。



野戦の(安全な)水

水筒へ
池の水をすくうて水筒へいれたり
きたない水もいれたが、けっこう飲めた。
水は飲まなんだらやっていけんので、みんあ気を付け、助けおうて使ようた。
「毒を入れとる」とも言わりょうたから薬で検査だけはしてから飲みょうた。

もう、あわーなこと(戦争)はしちぁらいけん。
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お伊勢参り

2016年07月13日 | 父の話
談・2004.7.4


お伊勢参り
じいちやん(管理人の祖父)が若い時分はいっぺんは参らにゃあようた。
ワシの時にゃあ小田郡から参るんで、各地区から集まって団体で行きょうた。
名古屋から参り紀伊半島をまわり大阪へ出ようた。



石槌信仰
はくさんが居る時は盛んじゃった。
いっつぁんやこ、(石槌参りの後も)帰ってから一杯寄ってやりょうた。


四国巡礼
(時間がかかる、カネがかかる)おらん。



大門駅への道

高石垣から山へ登る道。
次に片山んとこから堂面へ下りずに行く道。
三番目が坂里じゃ。



茂平の道直し

各ヒラで出て道を直しょうた。(もちろん無償)
新川の掃除・・終わった後、集会所へ寄って酒を飲みょうた。酒と菓子・パンの費用がちいとばあ村から出ようた。新川は茂平全体の水路じゃったけえ。地域の楽しみ,酒の楽しみで大勢出ょうた。



田んぼ二毛作
小麦が多い。
ざぶたは植えることができんので、そのまま。




畑の灌漑

(水路から畑へ灌漑用水して使用していたか?)
せん。
水路・川は田んぼの水として使用することになっとる。
権利者も補修工事に出てやりょうる。


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城見の火事(連絡網)

2016年07月13日 | 父の話
談・2004.7.4

城見の火事(連絡網)

(火事だ!という時、電話が無い時代はどうゆう連絡方法だったのか)

半鐘のサイレンで(畑仕事中などの)消防団員に知らせ、
集まってくる。
集まったら火事の場所はどこどこゆうて説明し、行きょうた。
用之江や大冝の山火事に行きょうた。
(城見以外の火事は)行きょうらなんだ。
昔は(電話はないが)連絡をようしてくりょうた。

(半鐘の鐘は使っていたのか)
サイレンといっしょに鳴らすことがあった(笑)。
火事が近い時は・・サイレンも半鐘も鳴らさず・・・自転車でしらせあぎょうた。



茂平の乳牛

2~3年じゃ。止めた。
※昭和35年頃



干しイチジク

初めは練炭で一晩焚きょうた。
温度や時間で汁の出ようが多かったりした。
硫黄を使うようになった。
ウチには硫黄と練炭で焚くようにした。
神戸からの注文はウチに来るようになった。
(遠慮して)里庄駅から送りょうた。

作るのはわり方むずかしかった。
門へ杭を打って干すのも、手間がかかりょうた。

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