しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

終戦直後の指令②公文書焼却  文書を焼く煙が幾日となく続く

2021年08月15日 | 昭和20年(戦後)
終戦後、日本の役場が行った最初のことは文書を焼却したことはよく知られている。
以前読んだ何かの本には、終戦後の郡役場の官吏が自転車に乗って、管轄内の町村役場を回って口頭で指示したとあった。
役人は、こっそりと、証拠を残さないように焼いた。

この本の↓、著者は参謀本部の課長や阿南陸相の秘書官を務めた人。
巻頭に書かれている。

「太平洋戦争陸戦慨史」 林三郎  岩波新書  1951年発行

本書では、太平洋戦争間における陸軍統帥部の動きにつき、
「当時はこうであった」ということを、忠実に伝えようと私は務めた。
資料の収集と利用には非常な苦心を要した。
というのは、ほとんど大部分の資料が敗戦とともに焼かれてしまい、
書中の記述については、見る人によってはなお不備な点があるであろう。


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「福山市引野町史」 引野町史編纂会 ぎょうせい 昭和61年発行

引野村

昭和20年11月2日、連合軍歩兵大隊1.000人がノートン隊長に率いられて大津野海軍航空隊に進駐した。
幹部宿舎として戦災を免れた数軒が接収された。
図書・文書・什器類を焼く煙が幾日となく続き、昨日まで祖国の光輝ある歴史を物語るものとされた忠魂碑の類も続々と棄却されていった。

進駐軍を迎えて困ったのは便所であった。
市は市内9ヶ所に進駐軍用便所を造ってこれに供した。
もちろん水洗であったから、占領軍専用の水道管を敷設したりした。

今日になって悔やまれるものの一つにはこの時期における文書類の過度なまでの焼却廃棄で、
戦災による損傷焼失とともに、悔やんでも悔やみきれない文化財の喪失がその中に含まれていた。

昭和21年5月24日、米軍に代わって豪州軍が進駐した。
絶対勝者の進駐にしては総じて紳士的、特に米軍の場合がそうだった。




「特高警察」 萩野富士夫 岩波新書 2012年発行
特高警察
8月15日前後から、多くの特高の関係資料が証拠隠滅のために焼却された。
内務省では各県に奥野誠亮や原文兵衛らを派遣して、文書の焼却などを口頭で連絡している。



「戦争調査会」 井上寿一著 講談社現代新書 2017年発行


戦争原因の追及はむずかしい。
敗戦国は責任回避に走り、証拠の隠滅を図る。

陸軍は早くも8月14日の午後から機密文書の焼却を始めている。
翌日正午の「玉音放送」後、中央官庁街を見渡すと、
外務省・内務省・大蔵省から公文書の焼却による煙が立ち上がっていた。



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(転記先・不明)

焼却文書

証拠隠滅を図る目的で焼却された文書が発掘された


日本陸海軍は敗戦とともに多くの公文書を焼却処分にした。
戦争犯罪追及に直結するからである。
このことは後の実証的な歴史研究に大きな障害となった。
ところが、発掘調査では時としてその焼却された公文書や書籍類の焼け残りが発掘されることがある。

東京都目黒区大橋遺跡等の調査では、陸軍の公文書や書籍類が多量に発掘された。
これらは、ゴミ穴・防空壕・地下壕などから出土したものである。
いずれも昭和20年8月15日の敗戦にともなって、証拠隠滅を図る目的で陸軍によって組織的に焼却されたものであったが、
公文書の綴りは大部なために、また書籍も比較的厚いために、完全燃焼に至らず残ったものである。

出土状況はガラス瓶、炭化した木材と共に検出された。
文書類は一気に投じられたため、多くの文書が焼けたものの一部は原型を留め文字の判読できるものが多々みられた。


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