しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「公職追放」と「追放解除」 (岡山県)

2021年08月15日 | 昭和21年~25年
「岡山県史現代Ⅰ・公職追放と選挙」
公職追放

いわゆる公職追放は、非軍事化・民主化のための最も重要な占領政策の一つであった。

昭和20年10月4日に連合国総司令部は、治安維持法その他の自由抑圧法規の廃止、政治犯の即時釈放、思想警察の廃止、内務大臣をはじめとする特高警察官の罷免などを使命した。
岡山県では当時の県警部長、特高課長以下特高関係警察官69名が罷免された。

愛国的労働団体の役職員の労働界からの追放。大日本産業報国会、大日本労務報告会、日本海運報国団などの主要役職員が解任された。

第一次追放
ABCDEFG(前述)の一切の者を公職から罷免し、かつ官職に就かせないように命じた。
当時公職にあって、明らかに覚書に該当すると思われた者の多くは、自ら辞職した。
岡山県知事・安積徳也も、大政翼賛会県支部長の経歴があり、他の27人の府県知事らとともに1月25日辞職した。
公職適否審査委員会は、昭和22年1月4日までに3759人の審査を行い264人を該当者と判定した。
以上第一次公職追放の該当者1067人のうち807人が公職から罷免され、260人が政府機関への就職を禁止された。

第二次追放
総司令部は公職追放を地方と経済界まで拡張するよう命じた。
昭和21年10月30日の合同新聞は「公職追放範囲拡大の声におびえて岡山県下の町村長が続々辞表を提出、供米その他の地方自治の運営に支障を来しつつあり」と報じている。
昭和22年1月施行令が公布され、追放が実施されることとなった。
これによって県会議員は主要公職とされ、該当者は退職させらることがはっきりした。
33議員のうち24名が該当するとわかり、審査を待たずに辞職した。
中央公職適否審査委員会は昭和23年5月10日に廃止されるが、それまでに57.116人を審査し、3633人を該当者と決定した。
県選出の犬養健はG項該当者と判定され、立候補できなくなった。


地方公職適否審査委員会
地方には県と5万人以上の市に委員会が置かれた。
全国の審査総数は651.000人。該当者は4081人であった。

潜在的該当者の追求
公職に就いていないため、指定を免れている潜在的該当者にも指定が行われることになった。
193.000人のが指定を受けた。
岡山県地方課が、県内の潜在的該当者を取りまとめたのは、大政翼賛会支部長610人、大政翼賛壮年団長735人、在郷軍人分会長1508人、大政翼賛協力会議長353人、極右団体32人、昭和17年総選挙の翼賛会推薦議員11人、同推薦団体16人、計3265人。このうち死亡264人、既指定25人、未復員41人であった。




「岡山市百年史下巻」 岡山市 ぎょうせい 平成3年発行

明らかに覚書に該当すると思われた者の多くは、自ら辞職したが、
岡山県知事安積得也も大政翼賛会県支部長の経歴があり、昭和21年1月25日に辞職した。

昭和21年11月8日政府は「地方公職に対する追放覚書の適用に関する件」を発表した。
すでに地方政界には波紋が広がっていた。
合同新聞は、「公職追放範囲拡大の声に怯えて岡山県下の町村長が続々辞表を提出」(昭和21年10月31日)
「近く発令される公職追放令該当予想町村長は県下365町村のうち、
かつての翼賛会支部長225人、翼壮8人、計233人。61%の多数にのぼり、同日までの辞表提出者は124人で、許可済が72人、保留52人。
該当しない人は昨年8月15日敗戦後就任したものが大部分を占め、
4市も津山市長辞任、倉敷市長辞表、橋本岡山市長は22年2月22日一身上の都合で退職し、翌年公職追放になった。

22年1月4日、普通公職にあるものでも退職させられる、ということになった。
(※県内等の追放者数は記述されていない)





「金光町史」 金光町 平成15年発行

公職追放

内務相の解体、特高警察の廃止、
手始めは、戦争指導者の各界から除去するという公職追放である。
特高警察の追放が始まりとなった。
昭和20年10月30日、教職員の追放に関する覚書が発せられた。
12月14日には産業報国会、労務報告会などの主要役員が解任された。町内に結成されていた各種報告会も解散に向かった。
12月15日、国家神道に対する政府の保証・支援・監督等が廃止。
昭和21年1月、大政翼賛会の活動者が対象となり、岡山県知事をはじめ県内で該当者1.067人のうち807人が公職から罷免された。
11月8日、「地方公職に対する追放覚え書」で、翌22年初めまでに県内の町村長は122名が辞表提出した。
金光町では5期務めた町長が辞任した。




「倉敷の歴史 18号」 2008年発行

聞き書ぎ昭和史・私の歩んだ道

叔父も親父も神職でしたので東京の国学院大学に進学しました。
ルソン島のジャングルの中、食べるもの、薬もなく、みんなばたばた行き倒れになっていきました。
昭和20年9月に士官から「日本軍は負けた、戦闘任務を解除した」、で復員した。

復員してきて、とりあえず召集を受ける前に勤めていた学校に電話で挨拶したら、
君は追放がかかっているから、学校へは出てくるなと言われたんです。
公職追放も知らないし、理由も聞かされてないんです。
ただね、私は国学院を出ているでしょう。
そこが引っかかったのかもしれないですね。
それで野菜売りの商売をしました。

6年間追放を受けていてね、それから昭和26年に玉島高校に勤めました。
兵隊上がりで動くのは苦じゃなかったから、考古学の発掘調査をよくやりました。





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追放解除

「岡山県政史」  岡山県 昭和44年発行

公職追放の解除

昭和25年6月に朝鮮戦争が勃発し、国際情勢は急速にその様相を変えた。
とくにわが国には、その影響が大きく、GHQの占領政策は、日本政府の国連への協力決定および
講和条約の早期締結の対応する挙国体制の必要などから転換されることになり、公職追放者の大量解除方針が伝えられるにいたった。
かくして、昭和25年10月の解除発表(本県関係者191名)を初めとして、翌26年6月(本県関係者2.300名)、
同年7月と解除がつづき、昭和27年4月の平和条約発効直前までに、全国の被追放者21万余人のうち20万余人の解除が行われ、
平和条約発効とともに公職追放はすべて消滅した。






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