しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

南樺太--「最強師団の宿命」(南樺太)

2018年03月20日 | 占守島の戦い
南樺太のことを
著名な史家、保阪正康氏はどのように記述しているのだろう?

同書に限らないが、
8月9日未明・ソ連軍の参戦による満州の詳細な状況・情報は方面軍や樺太や千島の師団に届かなかったのだろうか。
満州の状況を知れば対策が違うが、どうもそこが気になる。



「最強師団の宿命」保阪正康著2008年毎日新聞発行より転記する。

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南樺太

昭和20年8月9日にソ連軍は満州、そして南樺太に侵攻を開始した。
戦闘は8月15日以降もつづき、ソ連軍による民間人虐殺事件をも引き起こした。
そして第7師団は屯田兵以来の歴史に幕をおろした。


南樺太の守備にあたっている第88師団は、ソ連軍はこの地にも攻撃をしてくるだろうと、防備を固めている。
兵員は15.000余。この師団の上部は札幌に司令部を置く第五方面軍であった。
第88師団は樺太の防備であったが、司令部を豊原に移し、米軍上陸に備えて陣地をつくっていた。

ところが8月9日の早朝からソ連軍は、空軍機を飛ばし偵察を始めるとともに砲撃を加えてきた。
同時に南樺太と北樺太の国境線で激しい戦闘も起こった。
15日まで、双方の戦闘がつづいたが、日本軍は玉音放送のあとに武装解除することになった。

8月15日以後も、ソ連軍は戦闘を止めた日本軍部隊や民間人に激しい攻撃を行っている。
16日には恵須取への上陸を行い、正規の部隊でない義勇戦闘隊などが応戦しても、ソ連の攻撃に対峙することはできなかった。

『陸軍師団総覧』には、
「20日早朝、南部西海岸の真岡に突然ソ連軍が上陸を開始した。
すでに兵隊たちの召集解除を行った部隊もあり、あまりに一方的な戦闘であった。
ソ連軍は樺太全土を制圧するまで決して手をゆるめず、停戦交渉に訪れた日本軍軍使をも次々と射殺した。
そして22日になってようやく停戦交渉が成立するが、この間、真岡の戦闘で将兵105名、邦人は少なく見積もっても509名が犠牲になった」と書かれてある。

22日夕、第25連隊の連隊長がソ連軍に赴き、この地での停戦は成立している。
一方で、師団長とソ連との樺太全域の停戦交渉も22日から23日かけて、交渉は実った。
しかし、それでもなおソ連軍の攻撃はつづいたというのだ。

『旭川第7師団』の引用になるが、
「この成立時以降も、真岡での攻撃をゆるめず、さらに豊原駅に群がる集う避難民に銃爆撃を加えて、500名に及ぶ同胞を虐殺した。
樺太の戦いに於いてなくなった将兵は約700、
邦人の戦災死1.800
留萌沖で撃沈された引揚船の死者・不明者合わせて1.700
合計4.200が尊い命を散らした」

8月15日当時、南樺太には民間人が40.000~50.000人いたといわれる。
ソ連軍の攻撃に脅えた人たちは南樺太の各地から真岡や大泊などの港にむけて逃避行をつづけている。
しかし爆撃で死亡したり、
ソ連軍兵士の攻撃を前に自決する者も続出している。
真岡、大泊に上陸したソ連兵は略奪、暴行も行っている。

こうしたソ連の不法ともいうべき攻撃は未だに日本側の戦史には正確に記録されていない。



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