戦前の学校制度は複雑なうえに、国民学校や青年学校が発足し、制度が軌道にのるまえに敗戦で「学制改革」となった。
以下は「文科省のホームページ」と「岡山県教育史・続編」より転記する。
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「文科省のホームページ」より
新制中学校は昭和二十二年四月から発足したが、同年第一学年の生徒のみを義務就学とし、以後学年進行によって二十四年度に全学年の義務就学が完成した。
発足当初の新制中学校は、予算や資材の不足から、校舎、設備、教材、教具のすべてにわたり、また教員組織についてもきわめて不満足な状態であった。教員の約半数は国民学校からの転任により、その他は青年学校や中等学校からの充足によってまかなわれたが、不足は深刻をきわめた。
関係者の非常な努力によって、二十三年度の就学率は九九・二七%を誇った。
なおこの間、戦後各学校に一般化したPTA(父母と先生の会)が資金面等できわめて大きな役割を果たしたが、このことがのちにPTA本来の性格と目的について新たな問題を引き起こすことにもなった。
「岡山県教育史・続編」より
中学校創設当時の苦心
毛利章一(当時金浦中学校長)
中学校長を命ぜられ、開校するまでの一ヶ月、半数以上揃っていない各教科の教員を集めること、三カ所の小学校と青年学校に分散して学校を開設する計画であったのを二か所にまとめる交渉から仕事を始めた。
学校の位置指定は三ヶ町村の意見が対立し地方事務所長や県会議長まで仲介にたたれたが、まとまらず、分裂寸前まで追い込まれたこともあった。
昭和22.4.1 現在
所在地 校長名 兼務 学級数 生徒数
金浦中学校 小田郡金浦町 毛利章一 青 12 482
(大島中・西中・東中・金浦中・新吉中・小北中のうち、青年学校を兼務は大島中と金浦中)
以下は「文科省のホームページ」と「岡山県教育史・続編」より転記する。
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「文科省のホームページ」より
新制中学校は昭和二十二年四月から発足したが、同年第一学年の生徒のみを義務就学とし、以後学年進行によって二十四年度に全学年の義務就学が完成した。
発足当初の新制中学校は、予算や資材の不足から、校舎、設備、教材、教具のすべてにわたり、また教員組織についてもきわめて不満足な状態であった。教員の約半数は国民学校からの転任により、その他は青年学校や中等学校からの充足によってまかなわれたが、不足は深刻をきわめた。
関係者の非常な努力によって、二十三年度の就学率は九九・二七%を誇った。
なおこの間、戦後各学校に一般化したPTA(父母と先生の会)が資金面等できわめて大きな役割を果たしたが、このことがのちにPTA本来の性格と目的について新たな問題を引き起こすことにもなった。
「岡山県教育史・続編」より
中学校創設当時の苦心
毛利章一(当時金浦中学校長)
中学校長を命ぜられ、開校するまでの一ヶ月、半数以上揃っていない各教科の教員を集めること、三カ所の小学校と青年学校に分散して学校を開設する計画であったのを二か所にまとめる交渉から仕事を始めた。
学校の位置指定は三ヶ町村の意見が対立し地方事務所長や県会議長まで仲介にたたれたが、まとまらず、分裂寸前まで追い込まれたこともあった。
昭和22.4.1 現在
所在地 校長名 兼務 学級数 生徒数
金浦中学校 小田郡金浦町 毛利章一 青 12 482
(大島中・西中・東中・金浦中・新吉中・小北中のうち、青年学校を兼務は大島中と金浦中)
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