しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和20年8月8日・福山空襲の夜

2023年08月08日 | 昭和20年(終戦まで)

これは、
昭和22年4月1日に岡山県小田郡A村立A小学校に入学したB男さんの話。
談・2023.7.23

 

 

・・・

(問)小学校入学する前の想い出は?

 

戦時中の記憶

福山の空襲夜と、あくる日

いちばん記憶があるのは福山の空襲。
まあ、ぼのすごいB29が何機も旋回する。
焼夷弾を落とす。
そしたらあくる日になって、空からひらひら紙が落ちてくる。
商店の燃えカスが落ちていくる。商店の伝票や台帳が。
あれだけにゃビックリした。


田舎では庭に「涼み台」を置いて、9時か10時まで休んでいた。それから寝とった。
普段は、リュックと防空頭巾を枕元に置いて寝ようた。
その日は、
リュックサックを背負って、
もう僕らは逃げる用意をしとるん。
最低限の衣服と食べ物をちょろっといれとん。
空襲の時にゃ、そこで震えながら空を見とった。
僕らは壕がないから裏の山に逃げようゆうことにしとん。
裏の山はうっそうとして松の木がいっぱいあるん。
あっこへ逃げれば大丈夫じゃろうようた。
そこへは結局逃げなんだが、
逃げずにぶるぶる震ようた。

 


灯火管制と空襲警報発令

申し合わせがあって
”空襲警報発令”ゆうたら、上から電気が見えんようにせにゃあいけん。
外からも見えんように
昔は裸電球、傘があるのと無いのがあるが、それを風呂敷を被せて光が下だけにした。
村に面白い人がいて、
”空襲警報発令じゃ”いうて、その人が走ってまわるんじゃ。サイレンや半鐘もなるけれど。

電球は居間と台所と二つ。
電気(電球)はあったが、電気代がいってもったいないので石油ランプがあった。

 


・・・

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ”さんこう”(おかやま山陽高... | トップ | 昭和20年、ソ連への和平依頼 »

コメントを投稿

昭和20年(終戦まで)」カテゴリの最新記事