しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

知覧特攻基地跡

2021年02月06日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・鹿児島県南九州市知覧町  知覧平和公園
訪問日・2013年8月9日   

「最大の特攻基地」は知覧ではない

鹿屋である。
知覧から錦江湾を挟んで東に40キロ、大隅半島の中心に位置する鹿屋市には、
かつて海軍航空基地が置かれ、大戦末期には908人の特攻隊員が出撃した。
その数は知覧の約2倍、全国の陸海軍特攻基地のなかで最多である。
1936年に開隊、鹿屋基地は特攻作戦のみならず、海軍戦史において最も重要な基地のひとつであろう。
特攻戦跡観光で著名な知覧に比べ、知名度の差は歴然としている。

「”知覧”の誕生」 福間・山口編 柏書房 2015年発行



紅茶や武家屋敷で有名だった知覧。
いつの間にか特攻の町として観光の町に変わった。


「続しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2003年発行

知覧は1942年、「太刀洗陸軍飛行学校知覧文教所」として、
少年飛行兵、学徒飛行兵、学徒出陣の特別操縦見習士官らが操縦特訓を重ねた。
戦況の悪化に伴い最後の手段として決死隊が編成され、沖縄への特攻攻撃では知覧を主軸に出陣を開始、
陸軍特攻基地の中核としての役割を負った。
突撃隊は250キロあるいは500キロの爆弾をかかえ、沖縄へと出撃していった。





昭和の大空のサムライ↑と江戸時代の武士の屋敷↓(重伝建・知覧武家屋敷)







いつから知覧は特攻の町、特攻観光の町になっのだろう?


「戦跡の戦後史」 福間良明著 岩波書店2015年発行

証言の抑制

特攻出撃においては、「自発的な志願」が暗に強制されがちであった。
またエンジントラブル等により基地に帰還した特攻隊員は、罵倒強打されたあげく、
機体修理後すぐに、しかも単機で再出撃させられることも珍しくなかった。
250キロや500キロの爆弾を搭載している特攻機は機動性に劣るため、特攻出撃においては、
敵機攻撃に備えて、敵艦近くまで援護機が援護することが通例であった。
特攻機単機での出撃は、戦術的な効果は何ら期待されず、
ただ死を強制するものでしかなかった。

戦友会は少なからず、「加害証言などを抑制し、会員を統制する機能」を有していた。
かつての戦友たちが親睦を重ねることは、その延長で、
「戦友会の構成員が戦場の悲惨な現実や、残虐行為、上官に対する批判などについて、
語り、書くことを、統制し、管理」することにつながった。
当然ながら、戦友会への参加を拒むもの少なくなかった。

「遺族への配慮」もまた、証言を抑制する機能を帯びていた。
遺族に対して、
「凄惨で醜悪な戦場の現実」を伝えるべきではないという意識が共有されがちだった。
それだけに、遺族への配慮は
「客観的には、証言を封じるための殺し文句となってい」たのである。


戦跡の発明

知覧はいまや、「特攻の町」として知られ、
知覧特攻平和会館の年間入場者数は、近年では年間600.000人に達している。
長崎原爆資料館や沖縄県平和記念資料館を上回ることもめずらしくない。

しかし、そこから出撃したのはあくまで、全国各地から集められた陸軍パイロットたちであって、
知覧の住民ではない。
知覧の戦争体験は、基地での勤労動員や、基地周辺の食堂等で隊員たちとの触れ合いではあっても、
攻撃や戦闘そのものではない。

1964年の慰霊祭には県内の元少年飛行兵が12名参加した。
1969年になると、100名を上回る元少年飛行兵が参列するようになった。
「同期の桜」や「加藤隼戦闘隊」を合唱し、
知覧住民と元特攻隊員たちのあいだに、「軍歌の共同体」が創られている。
折しも1960年代後半の当時は、戦友会の活動が盛り上がりを見せていた。

戦記ブーム
週間朝日の高木俊郎「知覧」、「特攻おばさん」。
NHKの「遺族」
映画「出撃」


「生と死のはざまのなかで苦悩しながら、永遠の平和を願い、国の護りに殉じていった若い人々」
知覧高女なでしこ会


桜の枝を振りながら出撃する兵を見送った知覧高女の生徒。
「生と死のはざまのなかで苦悩しながら、永遠の平和を願い、国の護りに殉じていった若い人々」は、
そう思いたいのだろう。
他の特攻基地からは、決してこうゆう言葉はでない。








三角兵舎

太平洋戦争末期に登場し、全国各地に建てられた簡素な兵舎。
半地下のため少ない資材・労力で建てられ、敵にも見つかりづかいとされた。
知覧にもあり、
搭乗員の宿舎に使われた。
出撃前夜は三角兵舎で壮行会が開かれ、酒を酌み交わし遺書を書いた。



「日本の軍事遺跡」 飯田則夫著 河出書房新社  2004年発行
知覧他
航空特攻出撃基地
特攻機が飛び立った本土防衛の最前線

太平洋戦争末期、通常の戦法で戦局を図ることが困難となった日本軍は、さまざまな特別攻撃を行った。
航空特攻は、昭和19年10月25日に護衛空母を撃沈した海軍の「第一次神風特別攻撃隊」に始まり、
次第に作戦機だけでなく旧式の複葉機、練習機も投入し、練度の低い搭乗員を動員した。
海軍2.500名、陸軍1.900名余りが散っていった。

本土防衛の最前線となった鹿児島県には多くの航空基地があり、出撃の拠点となった。
鹿屋から828名、知覧から462名、万世からは201名が立ったとされる。



「特攻」 栗原俊雄著 中公新書 2015年発行

死へのカウントダウン
編成から出撃までの時間が長いと、士気を維持するのが難しい。
時間を短くするしかない。
命中率
フィリピン戦線では、命中率27%。
沖縄戦以降は8%という統計がある。

戦果とコスト
撃沈合計47隻
航空特攻は、海軍2431人、陸軍1417人 計3.848人
1隻沈めるために81人の兵士が死なねばならなかった。









平素率先垂範、陣頭指揮を唱えながら特攻に加わらず、
生き残った幹部が出撃していった若者を賛美し、
志願によるもの、憂国の情から莞爾として飛び立った等と語るのは
欺瞞以外の何物でもあるまい。

戦後、軍人恩給が復活すると、当然ながら彼等はその支給を受け、一般戦没者よりも格段に恵まれた生活を送った。
「死ね」と命じながら、命じた側のほとんどが生き残り、
「あれは志願でした」という無責任ぶりはどうか。

「志願」の一言で片づけられ、誰も特攻作戦の責任を取る者がいない。
そんな歴史を持つ国で、どうして日本の若者が国のために奉仕しようとするであろうか。

「特攻と日本人の戦争」 西川吉光著 扶桑書房 2009年発行






「日本の歴史14」 研秀出版 1973年発行
人間の生命

神風特攻隊の名はあまりにも有名である。
戦争の末期が近づくにつれ、航空機ばかりでなく、人間魚雷「回天」、爆弾ボート「震洋」など、
乗員必死の特公兵器が採用されていくのだが、
その主力となったのは、職業軍人ではなく、学徒兵であり、少年志願兵であった。
この無謀な戦術を強行した軍指導部を責める事さえ、死者への冒涜と懸念せざるをえないほど、
慟哭の世界に誘う。





コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 軍神・関行男中佐「神風特攻... | トップ | 鹿屋特攻慰霊塔「今日もまた... »

コメントを投稿

「戦争遺跡」を訪ねる」カテゴリの最新記事