しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「杜若(かきつばた)」の像

2021年04月17日 | 銅像の人
場所・石川県金沢市  能楽堂


金沢の街は戦災も受けず、今も加賀百万石の街並みと風情が残り、なんともいえない魅力がある。





金沢の街には
この歌がぴったりくる。歌・詞・曲、三拍子そろった名曲。

謡曲がふるふる 加賀宝生の
木洩れ陽青い 石だたみ
ああ 金沢は 金沢は・・・


加賀の女 歌:北島三郎 作詞:星野哲郎 作曲:島津伸男」







「石川県の歴史」  下出積興 山川出版社 昭和45年発行


加賀宝生の世界

”加賀へ行くと天から謡曲が降ってくる”、
屋根葺や植木屋が、仕事をしながら謡の一節を口ずさむからだ。

室町時代以来、能楽は武家のたしなみとされていたので、加賀の富樫、能登の畠山によっておこなわれたが、
さかんになったのは江戸時代にはいってからである。
利家は幸若舞の愛好者で、能楽のファンでもあった。
利長も父の資質をうけ神事能をはじめた。
宝生流とのつながりができたのは三代利常のときである。

加賀宝生の伝統の基礎をつくったのは綱紀である。
綱紀は、将軍綱吉の好みにおうじて能を宝生大夫友春(9代)にならった

それだけでなく、藩の能大夫も宝生流に弟子入りさせ、以後は藩内の能楽を宝生流一本に統一する。
さらに綱紀は細工者(工芸職人)たちにシテ方以外の各部門を余技として修練させた。
その上手下手におうじて扶持の増俸があった。
これが、町民各層をはじめ農民にいたるまで能楽を普及させた大きな原因となった。

半面、中世以来の他の芸能はほとんどこのころまでに姿を消してしまった。
幸若はおとろえ、
琵琶法師もうけつぐものはなかった。
歌舞伎は寛永以後は興行されなかった。









撮影日・2016年2月2日


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