しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

道①古代~戦国時代の道

2023年06月25日 | 江戸~明治

瀬戸内海の島々のうち、
吉備・安芸(現在の広島県・岡山県)と讃岐・伊予(香川県・愛媛県)の国境は、タライの舟を流して決めた
というようなことを学校の先生がおしてくれた。
その説は、先生自身も自信がなさそうだった。

今、地図をひろげてみると、タライで決めたのでなく、
古代律令国家の役人が、国と国との真ん中を、中国・四国に平等に分けているのがよくわかる。
例えば、
大きな児島は吉備、小豆島は讃岐にと、
地形とにらみあわせての平等な配分がよく見とれる。


古代の山陽道は、現在の笠岡市域を通らず、
市域の半分ほどは海域で、”鯨”の地名が残るように、
時折、迷い込む鯨がいる海岸線が広がっていたようだ。


・・・


「道の文化史」  中国地方総合研究センター 2013年発行

山陽道
古代の山陽道
近畿と大宰府を結ぶ、軍事、政治上の重要なルートであった。
馬を交通手段として駅伝システムが整えられた。30里ごとに(現在の約16キロ)駅家(うまや)が設けられた。

中世
駅家に変わり宿駅が設けられ、役人たちの鎌倉への往還が頻繁になってきた。
南北朝時代は戦の舞台、中世では独自に関所が関銭(通行税)を取り立てた。
市が出始めた。
伊勢神宮参詣が流行りだした。

・・・

(岡山県倉敷市真備町呉妹「琴引岩」 2022.3.30)

吉備真備公縁の琴引岩

古代山陽道は、この道だったのか?それとも小田川左岸だったのだろうか?

 

・・・

「道Ⅱ」 武部健一  法政大学出版局 2003年発行

鎌倉時代の橋

ほとんど木橋であったために、その遺構が少ない。
鎌倉時代の東海道にどれだけの橋があったかといえば、
東から、
瀬田、浜名湖。
橋の模様は『一遍上人聖絵』などの資料によるしかない。

関所

古代の関所は軍事的・警察的機構を果たすのを本質としたが、
中世の関所は経済的機能を主眼として、関餞の徴収を目的とした。
各所に関所が乱立した。


社寺参り

中世の旅の特徴の一つに社寺参りがある。
それによって道が拓かれたといってもよい。
熊野参詣はすでに平安時代から始まっている。
鎌倉時代に入ると後鳥羽上皇の23回をはじめ参詣者が多く、
随行者のひとりの藤原定家は、
「天下の貴賤、競いて南山を営む」
と嘆いたほどである。
熊野詣での道中はかなりの山道で、
貴族たちにとっては難行苦行の旅であった。
現世の利益と後生の極楽浄土を願うものであった。


・・・

 

 

コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
«  昭和20年6月23日沖縄戦終了③... | トップ | 道②江戸時代の道(年貢の道) »

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
古代山陽道 (killy)
2023-06-26 17:01:43
この地区に八高廃寺があるので、廃寺があった右岸が古代の山陽道であったと思います。
小田川も江戸期以前は福山方面に流れ、小さな小川だったと思われるので軽々と渡れたと思います。
返信する

コメントを投稿

江戸~明治」カテゴリの最新記事