しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

戦時中の教育(矢掛中学ほか)

2019年08月09日 | 昭和16年~19年
旧制矢中はある年、予科練に全生徒が受験願書を提出したことが知られている。


「矢掛町史・本編」より転記

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戦時中の教育(矢掛中学ほか)

中学生以上では、海軍兵学校、陸軍幼年学校、士官学校などに優等生の志望が増え、海軍甲種飛行予科練習生などの志望には半強制的な指導が学年全員になされた時や所も出た。
兵士になる年齢に達しない、あるいは志望しない生徒は、勤労動員で武器生産工場で働いた。
矢掛中学校の場合、敗戦の前年には五年生は航空機製作所(現三菱自工)、四年生は造船所(相生市・石播)三年生は航空機製作所で栄養失調と病気と闘いながら勤労奉仕をした。
一・二年生は開墾・田植・稲刈・麦播、麦刈などで食糧増産に励んだ。

学年の進級には配属将校の発言力が増し、上級学校進学用の内申書には、学業に代わって勤労成績が大きなウェートを占めるようになった。
敗戦の年には一年繰上卒業、四年生五年生は同時卒業の実施という非常事態となり、雨天体操場(体育館)は学校工場となり、地下壕を掘り、すべて本土決戦に備えた。
学校教育は全く破壊され、児童・生徒・学生はことごとく無謀な戦争遂行のための手段とされてしまったのである。
その人的物的被害は、権力を持つ者よりも持たない弱い人者、中央よりも地方、都市よりも農山漁村、富豪よりも小市民、要領のよいずる賢い者よりも生真面目で純粋な者の身の上に、戦争の経過に正比例して、大きくのしかかっていったのは、痛恨の史実である。
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