しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和20年、食べる物がない②大人「ほしがりません勝つまでは」

2023年08月08日 | 昭和20年(終戦まで)

食べる物や武器がなくても、精神論とスローガン(標語)だけは勇ましかった。
事後冷静になってみれば、まるで負け犬の遠吠えとしか言えない。

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「日本流通史」 石井寛治 有斐閣 2003年発行


食糧不足

極度の食糧不足に対応するため、国民は食べられるものは何でも食べようということになった。
雑誌『生活科学』1943年3月号は、昆虫で食べられそうなものを紹介している。
トンボの幼虫やかいこのサナギ、いなごの成虫。
カミキリムシやゲンゴロウまで、いったいどうやって食べるのであろうか。

これではまるで江戸時代の飢饉の庶民の姿である。

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「日本の食はどう変わってきたか」 原田信男 角川書店 平成25年発行


昭和15年7月、国民精神総動員運動による贅沢排撃運動と相まって、
8月1日の興亜奉公日には「ぜいたくは敵だ」といった立て看板が並び、
贅沢追放が魔女狩り的に広まっていった。
この規則によってデパートの食堂などでの米食が禁止され、米なし献立に切替られて、ソバ・ウドン・パン・おから・すいとんなどの代用食が主役となった。

食料は欠乏状態となり、非常食の研究が盛んに行われて、
昭和18年の「週刊毎日」では、「食べられるものいろいろ」という特集が組まれ、
ヘビトンボ・カワゲラ・クロスズメバチの幼虫の他、
ゲンゴロウ虫の佃煮などが記されている。

昭和20年7月7日「京都新聞」には、人間の尿から塩をとる方法が紹介されている。
悲しい意味で、まさに戦いは「文化の母」だったのである。


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「日本食物史」 江原・石川・東四柳共著 吉川弘文館 2009年発行

国民食

「米はなくとも雑穀や芋で立派な国民食ができます」、
国民食運動の目的は節米であった。
入手した食材の完全利用をはかって無駄を出さず、
地域食材の活用や自家生産を奨励することが、あらゆる機会をとらえてPRされた。
さらに、昭和17年には大政翼賛会を中心に、
「玄米食奨励運動」が展開された。
米不足を受けて政府が注目したのは、農山村の食生活であった。
米麦混合、粟黍混入、甘藷、里芋、麺類、雑炊、とうもろこし、そばなどであった。
これらは農産村の一般的な食生活の実態であった。
この食習が、当時の食糧難を救うのに役立つものとして行われた。
さらに昭和20年は冷害・風水害による大凶作で、配給量は極端に低下した。


代用食と日の丸弁当
戦時の象徴的な食物は代用食と日の丸弁当である。
日の丸弁当はごはんの真ん中に梅干を一つ入れただけの弁当で、
国旗のイメージと重なり、愛国弁当としても意味づけられた。
昭和14年制定の「興亜奉公日」には、質素倹約の象徴として、日の丸弁当を持参することが流行したが、
精神主義だけが前面に出て、栄養面の配慮のないものであった。

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「日本食物史」 江原・石川・東四柳共著 吉川弘文館 2009年発行


カテ飯
混主食はカテ飯で、増量の為にさまざまなものを混ぜて炊いた。
たとえば、油の絞りかす入りの「豆粕飯」、
干しウドン入りの「干しウドン入り飯」、
茶ガラを入れた「茶ガラ入り飯」などは節米のための苦肉の策であった。

一方、代用全食には、雑炊、粥、すいとんなどがあり、
代用主食には、どんぐり麺、ふすま入りパン、ぬか入りパン、うの花入りパン、ぬか団子、ふすま入り団子、そば芋餅、はと麦餅、どんぐり餅のようなものまで登場している。

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田舎では、貧しくとも日々の食料は不足なかったようだ。


(母の話)
イナゴ
イナゴは言うだけで食べた事は無い。 ジャムにして食べるとかようたがしていない。
どんぐり
粉にしてパンにする、とかようたが拾うたこともパンにした事も無い。
2001年1月3日

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