しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

対華二十一ヵ条要求

2020年12月19日 | 大正
「日本近現代史講義」 山内昌之・細谷雄一著 中公新書 2019年発行




対華二十一ヵ条要求


要求の起源
二十一ヵ条要求は、かなり広範にわたるもので、日本の中国権益を一挙に拡大しようとするものであった。

なぜ日本政府は、このように弾圧的な要求を突如提出したのであろうか。
1905年、ポーツマス条約でロシアが満州に持っていた権益(遼東半島の租借権、南満州鉄道の経営権など)を獲得し、大陸国家となった。
朝鮮半島と地続きの「特殊な関係」を持つ土地として、また日本の商工業進出や移民開拓のための土地として観念されるようになった。
1905年、北京条約で南満州の鉄道や鉱山、炭鉱の権益を拡大していった。
その結果、満州の在留邦人は日露戦前の4.000人から1910年には76.000人を超えるまでに膨れ上がった。

「10万の英霊、20憶の国ど(国の財産)」を代償に勝ち取った地としてみなされた。
1910年日本が韓国を併合。
欧米や中国では、日本が満州を「第二の朝鮮」にの懸念がしばしば表明されるようになった。

日本が獲得した中国大陸の権益は、不安定なものであった。
実は満州権益の返還期限は、遼東半島1923年、南満州鉄道は1939年に設定されていた。
日露戦争後、租借権延長は外交課題として意識されていた。

1911年辛亥革命が勃発。翌年「中華民国」が成立。
中国ではナショナリズムが高まり、列強の持つ中国権益を回収すべきだとする意見が取りざたされるようになった。
日本国内では危機感が高まった。


第一次世界大戦

満州権益の租借権延長は日本に一方的に有利で、中国にとってはメリットが全くなかった。
認めさせるのは大変困難であった。
何らかの「取引材料」が必要であった。
それを突如日本に提供したのが第一次世界大戦であった。

加藤高明外相の強力なリーダーシップのもとで、日英同盟を理由として連合国側にたって参戦した。
ドイツが持っていた南洋諸島を陥落させ、山東半島の租借地を占領した。
これによって戦後にドイツ権益の継承の発言権を獲得した。
加藤の主目的は、
山東半島の返還を取引材料として、中国からより大きな利益を得ることにあった。
”好意”を中国側に示すことによって、満州問題を解決しようとして出されたのが
二十一ヵ条要求だったのである。

外交交渉は、非常に紛糾した。

日中間の問題を網羅した感があり、過大な要求を中国に突き付けたのが根本原因である。
中国では、日本の参戦前から山東半島権益の返還を当然視する世論が盛り上がっていた。
袁世凱政権は情報を国内外に巧みにリークした。

主要部分を中国に認めさせ、初期の目的をかろうじて達成したが、
中国側の激しい反日運動を招き、
欧米の対日不信感情を増すという大きな代償も払うことになった。


中国の対日イメージは一気に悪化した

中国には、英・仏・露も多くの権益を持っていたが、二十一ヵ条要求の提出によって
日本が新国家建設を妨げる「単独敵」として浮上することになった。
その後の日中対立の原点になった。
袁世凱は日本の圧力に屈した「漢奸」(売国奴)とされ、評価は極めて低い。

二十一ヵ条要求は、短期的には利益を得たが
中国人から信頼を失うという大きな代償を払うことになった。
日中の友好や提携の可能性を狭めたと言わざるを得ない。


二十一ヵ条要求はなぜ転換点なのか

日露戦争後の日本の中国に対する優位意識、
一等国になったという意識、
日英同盟に拘束されない対中政策の展開、といった
日本の対中観、姿勢が表れた。
列強に事前通告もなかった。
中国では以後、「親日」はタブーとなった。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 笠岡高校時代(昭和39年~昭... | トップ | あこがれの「笠岡女学校」 »

コメントを投稿

大正」カテゴリの最新記事