しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

あこがれの「笠岡女学校」

2020年12月19日 | 江戸~明治
あこがれの「笠岡女学校」


管理人の祖母は4人姉妹の次女だった。
長女が家を出たので、次女である祖母が養子をもらって家を継いだ。
なぜ長女が家を出たのか、数年前におばの話しで知った。
以下はおばの話。


「長女は笠岡に女学校ができるというので、そこへ行きたかった。
どうしても行きたかったが親が許さなかった。

そしたら吉浜の(子供がいない)分限者から、「うちへ養女に来るなら、女学校へいかしちゃる」という話があった。
長女は自分から進んで養女になった。
そして出来たばかりの笠岡女学校へ入学した。
女学校の第二回卒業生だった。」



下記は笠岡女学校の創立当時こと。
勉学に燃える女性で、かつ裕福な家庭の子が入学したのであろう。


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「笠岡高校70年史」 笠岡高等学校・編集部  凸版印刷  昭和47年発行



(第二回卒業生・明治38年 「笠岡高校70年史」)


明治32年(1899)高等女学校・実業学校令が公布され、教育機関開設の要望は高まってきた。
明治33年(1900)岡山に県立の高等女学校が設けられた。
笠岡女学校はこのような背景のもとに創立されたのである。

こうして明治35年(1902)この地に町立の女学校が創立され、同時に町立の商業学校が設立された。
修業年限・定員を本科4ヶ年160名、技芸3ヶ年60名として開校された。
明治37年3月に第一回卒業生12名を送り出した。

明治40年、小学校令が改正され尋常小学校の修業年限が4年から6年になった。
同年以降入学志願者が増えた。女子教育の関心が高まり、
笠岡女学校は明治末期になっていよいよ充実発展の過程をたどるようになった。


(職員・生徒 明治40年 「笠岡高校70年史」)






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