しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

笠岡高校時代(昭和39年~昭和49年)

2020年12月18日 | 昭和41年~50年
「岡山朝日研究紀要」 岡山県立岡山朝日高校  平成12年発行

校長・巻頭言
笠岡高校時代(昭和39年~昭和49年)

昭和37年に教職の道に入り、邑久高校牛窓校舎に2年勤務。
昭和39年から笠岡高校。
赴任当時は地元の評価も低く、あの地区で行われていた備西テストでは常に金光学園がトップでそれに井原高校、矢掛高校が続きいつも最下位は笠岡高校の定番であった。
合同採点を行うため、くやしくてくやしくて、いつもその場を一刻も早く逃げ出したい衝動にかられた。
しかし、このテストは輪番で出題することとなっており、校内で総力を上げて問題検討を行うため、大いに勉強になったような気がする。
問題の品位に至るまで先輩に指摘され、まけじ魂に火をつけてくれた。
授業を工夫する日々を送り、数学教員としてのある程度の自信ももてたと思う。

担任指導では、最初はたよりないと思われたのか副担任とされ、少し不満もあった。
2年目から正担任となった。
クラスの数も多くいろいろな制約があり、窮屈なものもあった。
不登校の生徒に、かかわり方がわからず本を読んで頑張ったが、頑張るほど悪い方向にいき、ゆとりをもって考えるまでには、かなりの時間がかかったようだ。

笠岡高校では前半は教務課の時間割り係と管理係、後半は進路指導を担当した。
管理係は用品の管理で、もっとも苦痛なことは定期的に輪転機の掃除をすることで、手が真っ黒になり数日は痕跡がのこった。
最後の学年まで進路担当をしたときは定員205名中120名が公国立大学に進学し、祝杯をあげたことは楽しい思い出である。

趣味の世界では海の好きな生物の先生といつも行動を供にし、神島や高島によくでかけた。
漁の楽しさを学んだのはこの学校だ。



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