硫黄島(いおうとう)には陸海軍合わせて約21.000の日本兵がいた。
栗林中将が、硫黄島守備隊全員に配布した『敢闘ノ誓』はよく知られているが
特に
一 ・我等は敵10人を斃さざれば死すとも死せず
一 ・我等は最後の一人となるも「ゲリラ」に依って敵を悩まさん
は兵の行動にいかされた。
昭和20年3月21日大本営は、
「戦局ついに最後の関頭に直面し、17日夜半を期し最高指導官を陣頭に皇国の必勝安泰とを祈念しつつ全員壮烈なる総攻撃を敢行するとの打電。
栗林中将が、硫黄島守備隊全員に配布した『敢闘ノ誓』はよく知られているが
特に
一 ・我等は敵10人を斃さざれば死すとも死せず
一 ・我等は最後の一人となるも「ゲリラ」に依って敵を悩まさん
は兵の行動にいかされた。
昭和20年3月21日大本営は、
「戦局ついに最後の関頭に直面し、17日夜半を期し最高指導官を陣頭に皇国の必勝安泰とを祈念しつつ全員壮烈なる総攻撃を敢行するとの打電。
通爾後通信絶ゆ。
この硫黄島守備隊の玉砕を、一億国民は模範とすへし。」
と玉砕を発表した。
実際にはおよそ1.000人の兵が生還した。
どういう状況で、どういう人が帰還したのだろう。
この硫黄島守備隊の玉砕を、一億国民は模範とすへし。」
と玉砕を発表した。
実際にはおよそ1.000人の兵が生還した。
どういう状況で、どういう人が帰還したのだろう。
その一例。
・・・・・
森茂 財閥御曹司は部下を投稿させたのか
森茂中尉、30歳(戦死時)。
全身傷だらけの森茂少尉が生き残りの部下10数名を集めた。
「俺はもうだめだが皆はまだ大丈夫だ。
いいか皆は生き残ってくれ。
俺は本当のことを知っているつもりだが、
米国という国は国際法を守る国だ。
ここにボロ切れがあるが、
俺が死んだらこれを白旗の代わりにして米軍の方へ行け。
米軍は決して皆を殺しはしない。
生き残ってその後の日本を何とか守ってくれ、頼む」
森は可愛がっていた伍長に愛刀を渡すと兵たちを遠ざけ、手榴弾の発火栓を抜き腹に抱えて北の方を向いた。
部下を投降させた士官が硫黄島にいたのか。
もし本当なら、彼はどんな人物だったのだろう。
三木睦子の証言
平成18年12月、私は東京・渋谷にある三木武夫記念館を訪ねた。
故・三木武夫首相の睦子夫人が森中尉の三つ違いの妹である。
「昭和21年、硫黄島で兄の部下だったという方がいらして、部下に投降を勧めた話をしてくださった」
その人物は、上官だった森の最期を伝えようと遺族をさがしていた。その人の、その後の消息はわからないという。
「兄は不器用でしたが、優しい人でした。
部下を一人も殺したくなかったのだと思います」とも話す。
「この戦争はやるべきではない」と話していた兄を睦子は覚えている。
その人物は、上官だった森の最期を伝えようと遺族をさがしていた。その人の、その後の消息はわからないという。
「兄は不器用でしたが、優しい人でした。
部下を一人も殺したくなかったのだと思います」とも話す。
「この戦争はやるべきではない」と話していた兄を睦子は覚えている。
森家は多くの政治家や財界人を輩出している。
森茂は大学を二つも出て、将来は森コンツェルンを統べる人材と期待されていた。
その命を奪われた悔しさの中、家族は、
彼の最期の言葉が部下を生き延びさせたと信じた。
「硫黄島 栗林中将の最後」 梯久美子 文芸春秋 2010年発行