しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

五平太(ごへいだ)の煙

2022年04月29日 | 昭和31年~35年
小学生の時、日本の石炭産業は全盛期だったが、
茂平で石炭を見たことは一度もない。ゴヘイダという言葉も知らない。
城見小学校に行けば真冬の時に教員室に達磨ストーブがあり、石炭をくべていた。
ストーブの隣にはバケツに入った石炭があった。
手に取れば汚れるだけなので、木山捷平のように珍重するとか欲しいとか思ったことはない。


茂平の子は踏切をわたらないと学校まで行けないので、
機関車の真っ赤に燃え上がる釜、
スコップで石炭をすくう、釜に投げ込む、飛び散る汗、
を踏切の真下から見ていた。


ゴヘイダの煙を身をもって体験することは何度もあった。
大門~笠岡間には金崎トンネルがあり、真っ黒い煙が顔に、煤となって襲い込んできていた。


・・・・・

五平太(ごへいだ)の煙

「小説を、映画を、鉄道が走る」 川本三郎  集英社 2011年発行


太宰治と親交のあった私小説作家、木山捷平に「斜里の白雪」という北海道旅行記がある。
昭和42年に道東を旅した時の作。
作者は「木井」として登場する。
釧路と網走を結ぶ「釧網(せんもう)本線」の屈斜路湖に近い川湯駅で「木井」は汽車を待つ。
「木井」はホームの花壇の木がどれも黒くなっているのに気づく。
土地の者らしい中年の女性がいう。
「五平太(ごへいだ)の煙だんべ。
汽車が一日に何べんもこの前を通るもの」。


私は何十年ぶりかでこの言葉を思い出した。
子どもの時、私も石炭のことをゴヘイダと呼んでいた。
木山捷平の故郷は現在の岡山県の笠岡。
「ゴヘイダ」は故郷の方言だとばかり思っていた。
司馬遼太郎によれば、
むかし筑前地方で五平太という人物がはじめて石炭を発見したので、石炭のことを五平太というのだ。

(井笠鉄道新山駅)

木山捷平はそのあと、
子供時代の汽車と石炭の楽しい思い出を語っている。
「私が小学生の時、村にはじめて汽車がついた。
私ども小学生は汽車も珍しかったが、それと同程度にゴヘイダがめずらしかった。
線路にはいって拾ってきては珍重した。
カバンの中に入れて学校に持って行き、授業時間中でも見せくらべをした。
黒くてよく光るのが上物だった。
話し合いがまとまれば、鉛筆何本、ラムネ玉何個との交換もできた」



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「一六銀行って、知っている?」

2022年04月29日 | 昭和41年~50年
中学校のクラスにも、高校のクラスにも質屋の息子がいたが(息子と書くのは、女生徒の親までは知らないので)、
その質屋のことを「しちや」・「ひちや」と呼ぶ人はいたが、
「いちろく銀行」と言う人はいなかったような気がする・・・けど。




「家計簿の中の昭和」 澤地久枝 文芸春秋 2007年発行 


若い人に「一六銀行(いちろくぎんこう)って、知っている?」
とたずねると、みんな首を横にふる。
質屋(しちや)のことである。
江戸時代から質屋はあり、日本だけでなくアメリカにもある。
庶民の銀行が質屋だった。


質草は、3ヶ月ごとの利上げをつづけていれば、流されない(所有権の移転はない)。
元本と利息を払えば、もとの姿で手許にもどってくる。


質屋の蔵は堅牢にできていて、預かった衣類に虫がつくこともないし、少々の火事にはビクともしない。
客の秘密を守るのが質屋の歴史的な鉄則である。


その日必要な現金の手当てに,人びとがかけこんでいったのは質屋であり、質草はつつましい。


・・・


いま、「街の金融」は全盛のように見える。
見まわせば、広告が溢れかえり、24時間営業の店舗が目につく。
その現在も、借金が独走する「消費者金融」などより、「質草」という自前の担保で「自由」を守れるという理由から質屋の利用者はたえない。
昨今の質草の主流は、貴金属という。



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大学生になって、夏休みの前に布団を質屋にいれて帰省のお金を借りる人がいた。
夏休みが終わると質屋に行って、お金を払い蒲団を戻してもらっていた。
それ以前は、学生服をそうした人もいたようだ。


私は中学校3年の時の時計をしていたが、型が古く、質屋に行って質流れを買った。
二度目はテープレコーダーが欲しくなったが電気店では高いので、質流れを買いに行った。その時、1.500円で買ったのを覚えている。



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