しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

会社に行って鍋ややかんを修理する

2022年04月20日 | 昭和21年~25年

就職した会社はもともと、海軍呉鎮守府からの土木・建築の請負業だった。
ところが、
敗戦で海軍は無くなり、広島の本社は原爆で破滅し、無の状態のところにさらに復員兵が復職してきた。

その時代をベテラン社員が話す中で、「会社に行っては鍋やヤカンを修理していた」ことをよく覚えている。どんな仕事なんだろう?
少し参考になるような本があった。↓

 

 

 

「少年時代」 安野光雅  山川出版社 2015年発行

戦後すぐのころはすることがないのでアルバイトをした。
土建業の堀内組の堀内さんは、
鍋の底に黒いものを塗って火にかけると、黒い方がはやく沸騰する。
「それを実演販売して、鍋の底に塗る墨を売るのだ。
あ、そういえば穴のあいた鍋を修繕するというのもあったなあ。
ああ、あれは硫黄に墨を混ぜて型に入れて固めればいいんだ。
熱した鍋の穴にあててこすると硫黄がとけて穴をふさぐ。
水を入れて火にかけても水がある間は硫黄もとけないんだ」
といって笑った。
堀内は土木課が仕事をくれないから、
「役所になぐりこみをかけてな、悪いことをしたもんだ」という。
ほかにも何をしたかわかったものではない。

 

 

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桧垣直右

2022年04月20日 | 銅像の人

場所・岡山県玉野市築港 

 

桧垣は戦前の内務官僚知事だが、宇野港の開発功績者として新聞に名が載ることが、今でも時折ある。

 


宇野港

宇野港が世の注目をあびはじめたのは日清戦争後のことだ。
国力増強、軍備拡張の観点から、時の海軍大臣西郷従道や第十一師団長乃木希典ら多くの要人が現地を視察し、その自然条件のよさから評価したが、すぐには実現せず、
また1904(明治37)年宇野線敷設の仮免許がおりたときも見おくられ、
翌々年起工式まで行われながら、県会と県知事の対立でもめ、けっきょく内務大臣の指示で強行され、
1909(明治42)年に近代的な宇野港が完成した。

「岡山県の歴史散歩」  山川出版社  1976年発行

 

 

第8代岡山県知事 桧垣直右

宇野築港計画は、日露戦争中の明治37年県会で、当時の知事桧垣直右によって提案されたが、否決された。
このため知事は翌年ふたたび県会に提案、県会は負担にたえられないという理由で反対し、廃案にもちこんだ。
知事は「本県の公益のため」無視し、明治39年内務大臣の指示を得て原案執行を公布した。


こうして明治38年起工し明治42年竣工した。
これについで明治43年に国鉄宇野駅が開業し、中国四国の連絡の宇高連絡船が就航するに及んで、
港としても本格的形態と機能をととのえるにいたった。

「岡山県の歴史」  谷口澄夫著 山川出版社 昭和45年発行

 

撮影日・2022.4.16

 

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田村占義

2022年04月20日 | 銅像の人

場所・岡山県浅口市鴨方町鴨方 長川寺
 

鴨方の長川寺に胸像があった。

氏のことは知らないので、墓碑から転記する。

 

 


昭和24年果物出荷組合を創立し遥南園芸農業協同組合及び遥南園芸園芸農業出荷組合の名称にて昭和53年迄30年間殆ど組合長として、

この運営に当たり郷土産業のため献身努力せり


太平洋戦争中海軍参謀及び陸軍参謀として奮戦す
従五位 勲四等 海軍中佐  田村占義

 

 

(浅口市鴨方町)

 

撮影日・2022.3.21  

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