しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

ヒマを作る

2022年02月02日 | 農業(農作物・家畜)
ヒマが大戦末期に国から栽培督促があったのは知っていたが、
学校農園にまで作られていたとは知らなかった。
学校では食用作物に限定でなく、工芸作物も植えていたようだ。




(Wikipedia)

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鴨方町史本編」 鴨方町  平成2年発行

ヒマの栽培
昭和19年4月20日の町報で次のような通達が出された。
「熾烈なる航空決戦の現下、航空機用潤滑油の需要は益々激増の一途にあります。
のみならず、戦時の繊維資源の確保もまた強く要請されるの現状にあり、
ヒマ栽培運動は、この重点を種子の収穫に置き、茎皮等副産物をも利用する方途のもとに宅地、空閑地、荒地等を利用して,ヒマの大増産を図り、その収穫する種子は軍部に供出し、戦力の増強に資せんとする。」
・種子 常会長より配布
・割当 一戸最低15本、学校は最低20本。
・供出 種子の5倍を献納する。其の他、学校では児童に桑の皮はぎをして、それを集め供出さす。

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「新修倉敷市史6」

昭和20年4月から航空機の潤滑油の原料になるとヒマ(トウゴマ)の緊急増産に乗り出した。
農家は一戸40本以上栽培するよう割り当てた。


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戦争末期の食糧増産運動 
「岡山県教育史」 岡山県教育委員会 昭和49年発行

初等科の児童は対象にならなかったが、それぞれ生産活動に協力した。
乾燥刈り、炭焼き、どんぐり集め、いも作り、豆作り、堆肥作り、
児童の力でできることは協力奉仕した。

運動場の周辺は掘り起こして畑にした。
いもや豆やヒマを栽培した。
ヒマは航空機の潤滑油にするというので、力をいれて栽培し供出した。
児童がバケツを掲げて町に出て、馬糞を拾い集める風景もよく見られた。学校で肥料にした。


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横江国民学校
「神島史誌」より

昭和18年11月27日 ヒマ繊維を採取、供出


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(父の話)

昭和19年 ヒマの栽培
下剤じゃ。
茂平にゃあ作りゃあせなんだ。ゆう事をよう聞くところは植えとるが。
(管理人記※戦時中は大政翼賛会より「航空エンジンの潤滑油」として奨励されたとある)

談・2000.8.27

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野戦の便所

2022年02月02日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
(父の話)

穴を掘りそこが便所になる。
簡単な目隠し程度をする事もあるが、丸見えの事もある。
赤柴隊は民家を使うこともよくあり、・・・兵隊がくると民家は逃げていたので空家・・・大きな民家のを勝手に使っていた。
それは神戸の部隊やこはしょうらなんだ。じゃけい「岡山隊の後は便所が満杯」という、ようない評判じゃった。
岡山県のが神戸や、鳥取に比べする事が悪ぃ。
行進の途中では、用をすまし後は急いで隊の行列に戻らなくてはいけないので、それは転ぶようであった。

談・2000・4・30

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昭和13年5月4日から22日にいたる間の従軍日記をまとめ、『麦と兵隊』と題して、
昭和13年8月号の「改造」に掲載した。
戦場のたんたんたる報告である。

麦畑に糞をたれに行く。
しゃがむと背の高い麦のために何も見えなくなってしまう。
誰もいないのかと思っていると、麦の中から煙草の煙がゆらゆらと立ちのぼる。
汚い話だが兵隊のたれた糞を踏まないように注意して歩きながら、私は排泄されたものが殆ど血の混った赤い糞であるのを見て、胸つかれるものがあった。
それから赤い糞を残しながら、煙草を燻ぶらして悠々と帰って行く兵隊の姿を見た時、そこはかとなき感激を禁じ得なかった。
(5月9日)


そんな描写がつづき、糞をたれる兵隊という日常的な人間の生理によって、戦場の一面を描いた。
この一兵士の日記は、銃後の国民の胸をつよくとらえたのである。
ここには戦場が持つ残酷さ、悲惨さは避けられている。




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かんぴょうを作る

2022年02月02日 | 農業(農作物・家畜)
夏休み、田舎の庭には実がなるものを植えていた。
大人が植えたり、子供が宿題で植えたり、その両方だったりしたような。
ひょうたん、ニガウリ、かんぴょう、へちま。
ひょうたんは遊び、
ニガウリは日除けと食用、
かんぴょうは遊びと食用、
へちまは遊びと洗い物、
実が大きいので見ても楽しかった。
かんぴょうは夕顔と呼ばれ、朝顔と同様子供にも簡単に花を咲かせることが出来、人気があった。





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(父の話)
日和の時ええように剥いだら。
干すのがええようにいったら。
夏じゃけいのう。
中の種もとってムシロにひろげたり。
炊いてたびょうた。

今は誰もつくらんけい(種を)たべれん。
めんどくせいからやめた。

談・2001.10.8

へちまは背中をこするだけじゃ。
かんぴょうは食べる。
切るもんがある、それで外へ干す。寒うなってから食びょうた。

談・2002年11月14日


(母の話)
めんどくせいばぁじゃたけい止めた。
戦後のなにも食べるもんがねぃ時につくりょうた。
五・六年作りょうたかなぁ。

日和が二三日つづいたら、からっとしてええようにひる。
食べもんがねいけいこの辺でも作るようになったんじゃ。
なんでもすぐ買えるようになってから作らんようになった。かんぴょうもつくらんでも買えるようになった、じきに。

めんどくせいばぁじゃった。

談・2001年10月7日



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コメント (1)
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