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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「捕虜」が死ぬ ~戦場の死~

2022年02月06日 | 昭和16年~19年
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「バターン 遠い道のりのさきに」 
  
1942年4月9日まで、私たちはバターンとコレヒドールを守るために戦かった。
日本軍は55日間でフィリピン諸島を手に入れる計画だった。
しかし148日間、つまり予想された期間の3倍近くも持ちこたえた。
アメリカ合衆国の歴史始まっていらい、全軍が降伏する羽目になったのはこれが最初である。

日本軍は25.000~35.000の兵がバターンにいるものと推定していた。
降伏当時のバターンには105.000人の米比の兵・市民がいた。
日本軍が見積もっていたよりはるかに大きな数である。

日本軍のある一隊が歩けと命令したかと思うと、べつの一隊が待てと言った。
これらの命令はすべて日本語で発せられ、たちどころに反応しないと、私たちは殴られ、ツバを吐かれ、突き飛ばされ、ある場合には撃たれた。

私たちバターンの兵士は、収容所に到着したころには半死半生だった。
ほとんど2つか3つの健康上の問題を持っていた。
マラリア・赤痢・栄養失調・飢え・脱水症・肺炎・脚気・ジフテリア等である。
わたしたち、ほとんどすべては人間の通常の耐久力をこえて叩かれいたぶられていた。

死の行進はじまる
4月10日の朝、日本軍は私たちを歩かせた。
早く歩かせようと大声を張りあげ、銃剣でこづいた。
最初の一マイルで、私たちは行進でなく、ただ歩いており、よろめく群れだった。
日本軍は道端で拾った棒切れで私たちをたたきはじめた。
生きたければ、行軍の途中で休むことはできないのだ。
便意をもよおしたらどうするか?
生きるためにはズボンをはいたまま排尿するしかなかった。

3日目になると、食糧も水もなしに行進がもとで、過去にいっぱい飲み食いしたものを空想するようになった。
バターン周辺には井戸がたくさんあったが、日本軍は捕虜に水を与えることについて決まりがなかった。
捕虜が水を求めて井戸に走った。
見張りは突然自分の銃剣を首と背中にぶすりとやった。
そのアメリカ人捕虜は崩れ落ち、自分の身に何が起こったかわからないうちに死んだのだった。
私たちは誰もが恐怖でいっぱいになった。

私たちは毎日、朝の6時半から夜の8時か9時まで歩いた。
私たちはカタツムリのように遅くトボトボと歩くことしかできなかった。
連中は私たちをどこに連れて行くのだろう。永遠につづくのか。

「バターン 遠い道のりのさきに」 レスター・テニー 梨の木舎  2003年発行


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「生きている兵隊」  石川達三  1938年紀元節

敵の部隊は大きなものではなかったが、南京が近くなるとさすがにその抗戦にも必死の色が感じられるのであった。
かういふ追撃戦ではどこの部隊でも捕虜の始末に困るのであった。
自分たちがこれから必死な戦闘にかかるといふのに警備をしながら捕虜を連れて歩くわけにはいかない。
最も簡単に処置をつける方法は殺すことである。
しかし一旦つれてくると殺すにも骨が折れてならない。
「捕虜は捕まえたらその場で殺せ」
それは特に命令といふわけではなかったが、大体さういふ方針が上部から示された。

笠原伍長はかういふ場合にあって、やはり勇敢にそれを実行した。
彼は数珠つなぎした十三人を片はしから順々に斬って行った。


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(捕虜の食事)

「クワイ河に虹をかけた男」

「家畜のように貨車に詰め込まれました。
太陽の熱で貨車はこげつくオープンとなって出発していった。
私はまだ赤痢患者だった。
この厄介な病気は日によっては50回くらい便所通いが必要であり、
私と同じような患者が同じ貨車に10人ほどいた。
この用便のためバケツが一個、食事用にもう一個のバケツ。
衣類の状態はご想像におまかせする。」

「”今からは、病人はいないのだっ、全員健康体である。
日本の天皇陛下のために働くのだ”
我々は夜通し行進させられた。
お天気具合によっては浴びるような雨、またすぐ焼けつくような暑さに変わる山腹の径を呪いながら進んだ。」
「一日2食。本質的にビタミンとカロリーが欠けていた。
食事の他に活力源はない。
恐るべき重労働が強要され捕虜の生命を奪い始めていた。
ありとあらゆるすべての疫病が流行し、
非常識な長時間労働がジャングルの樹木の伐採や路盤整備に課せられ、
捕虜はその場で死んでいった。」

1943年、この年はコレラが大発生した。
「コレラと赤痢の患者で超満員、
激しい苦痛にのたうちまわっていた。
有色・白色の人種を問わず、同じ小屋に横たわり、ぼろをまとい、または素裸で、
自制心もなく嘔吐し、排泄物をあたりいちめん撒き散らしたままだった。
歩ける捕虜が選ばれ、
夜のうちに死んだ者を運び出した。
死臭がたちこめ吐き気を催した。
描写することもできないほどの凄まじい情景だった。」

「3年半にも及ぶ屈辱と飢餓の日々でした。
我々にはろくに薬も与えられませんでした。
国際赤十字から送られた薬は、戦争が終わってみると、
なんと倉庫の中からいっぱい見つかったのです。
悲しい光景でした。
薬さえあれば、数え切れないほどの仲間の命を救うことができたのに・・・。
食糧も同じことでした。
国際赤十字からの食糧が届かなかったんです。なぜんんだ?というしかありません。
捕虜を死ぬまで働かせるのが、日本の意図だったのではないでしょうか。
私はそう確信しています。
なぜなら、天皇陛下のために命を捧げるのことができたのは名誉なことだと、
とても信じがたいことです。」

「クワイ河に虹をかけた男」 満田康弘  梨の木舎  2011年発行




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大岡昇平は”文明国”の捕虜になった。
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「俘虜記」 大岡昇平  講談社文庫 昭和46年発行

生きている俘虜
私がここでいう俘虜とは、終戦の大勅によって矛を捨てた兵士ではない。
彼等は単に被抑留者である。
俘虜とは日本が戦っていた間に、降服、或いは戦闘力を失うことによって、敵に捕らえられた者を指すべきである。

昭和20年3月中旬私がレイテ島の俘虜収容所に入った時、そこには約700の陸海将兵が収容されていた。
私は昭和19年3月応召、20年1月25日ルソン島南部のミンドロ島の山中で捕らえられた36歳の補充兵である。
私の応召前の職業は神戸の或る造船所の事務員であり、戦う日本の建艦状況を見て、祖国の敗北と自己の死を確信して比島へ来た。
そして奇妙な偶然によって文明国の俘虜となり、新しい境遇、殊に俘虜という新型の日本人の間に生きる運命に茫然としていた。
食事は、収縮した胃には入りきらない。味は落ちるが、わが隣人は喜んで私の食べ残しを食べた。
日は6時ころに暮れた。
俘虜はあらゆる遊びごとに耽るのであった。
相撲、縄跳び、毬投げ、室内ではトランプ、麻雀などが行われる。
外に欲望を遂げる手段を持たない俘虜にとっては食事は最大の楽しみである。
カロリーは十分である。
その証拠に俘虜はどんどん肥っている。


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