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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

天長節

2022年02月25日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
明治維新後5人の天皇がいる。
明治天皇、
大正天皇、
昭和天皇、
平成天皇、
令和天皇。
5人の天皇誕生日のうち、
明治天皇と昭和天皇は、日本の四季のなかで、いちばんいい季節に生まれたから、
今も祝日として残っている。←これは個人見解。

特に平成天皇の祝日には少し困った。
12月23日はXマス、月末、年末、年度末で忙しかった。はっきり言って業務に支障・負担があった。
大正天皇のように、祝日を移動してほしい気持ちがあった。

なお、次期の天皇誕生日は5月1日、
その次の天皇誕生日は9月6日。
そのまた次の天皇誕生日は現時点では空白。(男性や、男系とか言っていると)永遠に埋まらないかもしれない。



(アラカン)

・・・・・



「太平洋戦争下の学校生活」  岡野薫子 平凡社 2000年発行
※著者は昭和4年(1929)生まれ。


天長節

小学校に入学して初めての式は、4月29日の天長節であった。
この日、校門には、大きな日の丸国旗が交叉して立てられた。
その下をくぐる時、幼い私はいつもと違って晴れがましい気分になった。
友達の顔も、いつもと違って見えた。


「天長節」

今日のよき日は 大君の
うまれたまひし よき日なり



式の当日、校庭の一角に建てられた奉安殿の扉がひらかれる。
奉安殿というのは、天皇、皇后両陛下の写真と教育勅語がしまってある小さな蔵で、
建物自体、神社のつくりになっている。
その周囲は柵で囲み、玉砂利を敷き詰め、神聖な区域とされていた。
私が通学していた小学校の場合、奉安殿の位置が校門からかなり離れたところにあったので、登校下校時に最敬礼をするには無理があって、
普通は省略されていた。

その奉安殿から式場まで、勅語を運んでくるのは、教頭先生の役目だった。
教頭先生は、紫のふくさに覆われた教育勅語の箱を黒い漆塗りの盆にのせ、それを頭上高くかかげながら、
しずしずと運動場を横切って講堂まで歩いてくる。
やがて「最敬礼!」
号令がかかって、私たちは頭を深く下げる。
静かに「直れ」の号令がかかり、やっと頭をあげる。

フロックコートの礼装で絹の白手袋をはめた校長先生は、おもむろに紫のふくさをひろげ、
箱から教育勅語をとりだすと、巻物の紐をといてひろげ、押しいただく。
この時、私たちはまた、頭を下げる。
勅語を読み終わるまで、そのままの姿勢でいなくてはならない。
やがて、
「朕惟フニ、・・・・」
と、重々しい奉読の声が聞こえてくる。--というよりは、頭の上におりてくる。
何しろ、神主が祝詞をあげるときのような荘重な節回しで読まれるので、
子どもにとっては、耐え難く長い時間に思われた。
やっと終わって、元の姿勢に戻る時、あちこちから鼻水をすすりあげる音がおこる。
まわりはほっとした空気につつまれる。

新校長は、緊張のあまり手がふるえ、声がうわずる。
明治天皇のお言葉を代読することになるわけで、緊張するのも無理はなかった。

やがて、意味はわからぬまま、部分部分を暗記するようになった。


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もしかしたらロシア領土になっていたかも? 北関東・東北・北海道

2022年02月25日 | 令和元年~
ロシアがウクライナに侵攻した(2022.2.24)ニュースを見ていると、
もしかしたら日本でも、東日本まで、ほんとうにその可能性があったように思えてくる。



(読売新聞WEB)




昭和20年8月のスターリンの北海道分割案は、トルーマンに即決の拒否されたが、
本心は北海道は当然として、なるべく本土の奥深く、帝都東京付近まで侵攻したかったはずだ。

日本の指導者にとっては「天皇」を守ること以外眼中になかった。
国民は衣食住に事欠き、厭戦気分が充満していた。
”ご聖断”がなかったら、
いったい日本は、民も領土もどうなっていたのだろう?
(まさか、無理やりの一億総特攻・総玉砕して人口ゼロ?)


・・・・

本土決戦・生活の崩壊と戦意の低下

一億国民を本土決戦に総動員しようとするこのとき、
支配者の期待したような国民の戦意の燃え上がりはまったくみられなかった。
本土の軍隊と工場要員の需要増は、食糧事情を窮迫させた。

支配者が憂慮したのは、飢餓状態が現出し、治安上楽観を許さない事態が生まれることであった。
士気の低下、戦意の喪失は一般国民の間の現象だけではなかった。
兵器も行きわたらなく、毎日が陣地構築のための壕堀りか、食糧あさりに明け暮れて、教育訓練の余裕もなかった。

「岩波講座日本歴史21近代8」  岩波書店 1977年発行



・・・・

保阪正康は「本土決戦幻想--オリンピック作戦」で、
8月15日に降伏しなかったら、
ソ連軍は北海道と東北に侵入する。

火炎瓶、手投爆雷による特攻作戦をおこなふ。
このあとが民間人による戦闘で、
刀、槍、竹槍、鎌、ナタ、玄能、出刃包丁、鳶口を用ゐて腹部を突き刺せと教える。

「星のあひびき」 丸谷才一  集英社  2010年発行

・・・


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エビフライの上にかけてある、白くてどろどろしたものは何ですか?

2022年02月25日 | 食べもの

昭和48、49年頃のこと、
今は「オランダ通り」と呼ばれている、岡山の表町商店街の裏通りに、
エビフライ定食の美味しい店があった。

その当時、玉野市に住んでいて、日曜日にはバスに乗って岡山に遊びに出ることがよくあった。
昼食は、決まったようにその店に入り「エビフライ定食」を食べた。
それが岡山に出る楽しみの一つにもなっていた。

エビフライが、3本ほどついていた。
そのエビフライの上には、白くてどろどろしたものがかけてあった。
醤油でもないし、
ソースでもない、
マヨネーズに少し似ているような、
いったいなんだろう?あれは。





実家で兄嫁に聞いてみた。
「あれは、なんですか?」
兄嫁は、
「それはドレッシングでしょう」と。

それで覚えたドレッシングだったが、スーパーに行くと確かにドレッシングと呼ばれる商品が2~3種類ビンで置いてあった。

それから数年後、ドレッシングはビンの他にプラスチック容器に入りだした。
それからまた数年後、ドレッシングは個体・液体・その中間。
色も、透明から白、赤、ピンク、その他。
用途は、野菜用、魚用、韓国料理用、中華、ごまだれ、もうなにがなんだかわからないまでに増えた。

醤油とソースの2種類で育った世代には、
学校給食でケチャップを知り、
姉が嫁入り準備でマヨネーズを作るのを見て、それを知り、
最後に知ったドレッシングが、こんなに普及するとは知らなかった。


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