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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「特攻」で死ぬ ~戦場の死~

2022年02月05日 | 昭和16年~19年
レイテ決戦

レイテ決戦は、軍事的に日本の敗北を決定づけた戦闘であった。
特攻をやるほかはないという状態は、既に戦争に敗れているということにほかならない。
不幸なことに敗北はあり得るという思想がなかった当時の軍に、これは必然のなりゆきということになるのであろう。

いったん特攻が採用されてしまうと、
あとは作戦も何もあったものではなくなる。
攻撃目標は、何百という敵艦戦がレイテ周辺を遊弋しているのだ。
飛行機が着けば、
「それ行け!」
というだけが航空軍の仕事となった。

富永司令官はじめ参謀たちが、この時期もうどうにもならなくなっていることを知らなかったはずはない。
圧倒的な敵の戦力に立向かう特攻が、ほぼ無駄死であることを知らなかったはずはない。
2ヶ月足らずの間に、四航軍だけで62回にわたって特攻出撃が命じられている。

せいぜい5~6機の編隊で出撃して行く特攻が、実際にはいくばくの戦果をあげていないことを、彼らは知っていたのである。

少年航空兵でも、特攻隊員であればマニラの軍司令部へ申告に来る。
参謀を従えた軍司令官の謁見を受け、「頼むぞ」という激励の言葉が授けられた。

「太平洋戦争」 世界文化社 昭和42年発行


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神風特別攻撃隊

太平洋戦局を決定したマリアナ諸島ののち、アメリカ軍は進撃の手をゆるめずフィリピンのレイテ湾に上陸を開始した。
ろうばいした大本営は「捷」号作戦に出た。
日本艦隊が比島沖にさしかかったとき、アメリカ機動部隊と激戦、
世界最大の超弩級戦艦の武蔵をはじめ戦艦3隻、空母4隻、巡洋艦9隻、駆逐艦9隻は撃沈され、ここに連合艦隊は太平洋のもくずと消えた。
つぎつぎと悲報の入る比島沖海戦に焦慮した第一航空艦隊司令長官大西滝次郎中将は、ついに10月25日、特攻攻撃を命じた。

大本営はこの戦法を日本武士道の「玉砕」の精神とむすびつけ、
「神風特別攻撃隊」と称揚して、
これ以後兵力の不足を補う基本戦術として採用した。
アメリカ側は、この狂気のような行為を「自殺飛行機」と呼び、
対空砲火の弾薬と洋上遠く戦闘機を派遣して早期に撃墜するという方法で、
被害を最小限にくいとめるようになった。

「日本史5」 藤井松一 現代教養文庫 昭和42年発行


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(鹿児島県串良平和公園)

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「雲の墓標」  阿川弘之 新潮文庫  昭和33年発行




3月22日

「桜花」の部隊は鹿屋に移動し、きょう鹿屋から、南方360浬の敵機動部隊に攻撃をかけているそうだ。
「桜花」搭乗員の兵隊のあいだには、なにか陰気な空気がただよっていたが、
これをひっさげて行く陸攻部隊の勇猛さは、ちょっと類のないもので、
いくら覚悟をかたくしても、彼らの真似はできないと思うことがある。
親飛行機の陸攻の損耗は相当に激しく、大抵半分は落とされ、「桜花」を放ってどうやら生きのこったのが半数ぐらい、弾痕だらけになってかえって来る。
それが昼飯を食うと、あたらしい「桜花」を抱いてまた出かけて行く。
数時間して、一層弾痕だらけのすがたで、二機か三機になってかえって来る。
夕方ちかく、また出て行く。そうして全部いなくなるのだ。
出たら完全に出たっきりの「桜花」と、それを連れて行く陸攻と、気持ちのうえでどちらが楽でどちらがつらいか、はっきりいえない。
敵は「桜花」に「BAKA」というコードネームをつけているそうだ。


3月24日

0530総員起こし。敵沖縄に来襲。ついにわれらにも特攻出撃の時がちかづいて来た。
4時から講堂で司令の訓辞。
国難とか大義とか、もう沢山だ。
言われなくても自分たちはするだけのことはする。
海兵出の偵察学生に過度の飛行をゆるし、油をあたえ、帰省もみとめ、
われわれを今日の苦境におとしいれたのは誰の責任か。
せめてわれわれを百時間乗せてくれていたら、いつ出撃と決まっても、どれほど不安がすくなかったことだろう。
未熟なまま自分たちは甘んじて行くが、決して海軍という軍閥のためにつくす気はないのだ。

4月3日

今夜7時半過ぎ、T中尉が、コッツ、コッツと半長靴の音をさして、ぶらりと温習中のデッキへはいってきた。
見れば手に小さな紙片を持っている。
途端に自分は頭がカアッとなって来た。第二回特別攻撃隊員の発表である。
舎内は水を打ったようになってしまった。
T中尉はさりげなく名前を読みあげる。
「幾島少尉、白崎少尉、古市少尉、坂井少尉。」
「・・・・・」
「以上四名、明朝七時出発するから、用意しておけ。」
選に洩れた者の息を吐く音がした。
自分はすぐに坂井の顔を見た。ならんで白崎の顔も見えた。
坂井は、電気にかかったように顔、上半身硬直していた。
さすがに相撲部の猛者の白崎も、顔面朱をそそぎ、こちんこちんになっている。
特別外泊がゆるされる。
これには、女を買ってきてもいいという含みがある。
しかし平素其の方面で相当発展していた者も,此の日は出なかった。
ただちに祝盃の用意をする。
指名された者は全部艦爆。隊長は土屋中尉とのこと。
坂井は動揺して、しばらく普通でなく、其の様子が正視できなかったが、
一時間ほどするうちに、みなも坂井も、次第に硬直状態が解けてきた。
酒を飲みながら辞世をかんがえる者、遺書を書きはじめる者、荷物の整理をする者。
十一時過ぎ寝に就く。飛行服のまま眠る。
指名された者、みないびきをかいて、よく眠る。


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殺到する特攻機

あとからあとから尽きることなく姿を現した特攻機は、
たいてい撃ち出されたVT信管に触れて、目標の上空に達するまでに
空中で四散した。

「太平洋戦争全史」  亀井宏  講談社 2009年発行


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(鹿児島県鹿屋慰霊塔)



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富永中将

「予もまた諸子に続く」と励ます富永中将の言葉をかみしめながら、幾百の若者たちが雲流るる果てに飛び立って還らなかった。

昭和20年1月16日ルソン山中から陸軍機が飛び立った。
搭乗者は富永中将で、台湾視察の名目で無断で台湾転出を実行した。
富永中将は、レイテ戦がはじまると、海軍のあとを追って400機もの陸軍の特攻機を発進させた責任者だった。
「昭和史7太平洋戦争後期」 研秀出版 平成7年発行


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海上特攻

米軍が沖縄本島の飛行場使用を開始する前に、連合艦隊の作戦は「菊水」一号作戦と呼称された。
豊田長官は、作戦の一環として残存の水上部隊主力である戦艦大和以下、巡洋艦矢矧および駆逐艦8隻をもって海上特攻隊を編成し、沖縄米軍泊地に突入させる決心をした。

「・・・・茲に海上特攻隊を編成し、壮烈無比の突入作戦を命じたるは、
帝国海軍海上部隊の伝統を発揚するとともに其の栄光を後世に伝えんとするに外ならず、
各隊は其の特攻隊たると否とを問わず愈々殊死奮戦敵艦隊を此の処に殲滅を以って
皇国無窮の礎を確立すべし」


勝敗はすでに念頭になく、後世に帝国海軍の栄光を伝えるためにのみ最後の一戦を挑もうというのである。
大和乗組総員 3.332名。

4月7日
正午過ぎ警戒警報が発せられた。
12時15分、ほとんどの者が食べかけた握り飯を放り出して戦闘配置についた。
レーダーがおびただしい数の黒点をとらえていた。
雲が厚く肉眼で発見できない。
気がついたときには、米機の第一陣は舷側に迫っていた。
大和は必至の回避運動を開始した。
水柱が高くあがり、おびただしい硝煙が流れた。
周囲は、あらゆる騒音に満たされ。
懸命に応戦する高角砲に機銃。
しかし雲が厚く低いうえに、急激な転蛇によって艦が振動し傾斜するために、照準が定まらない。

大和は刻刻左に傾斜し始めた。
操舵室に浸水して舵が利かなくなり、大和は大きく輪を描いて際限のない左旋回を始めた。
「総員最上甲板」有賀艦長の声がマイクを通して伝えられた。
海中へ飛び込むことができたのは、500~600人ではなかったかと思われる。
しかし、実際の生存者は269名に過ぎなかった。

沈没時刻は14時23分、
駆逐艦2隻が無傷で、洋上に漂流する人員を救助した。
全体の戦死者は4.037名という記録が残っている。


「太平洋戦争全史」  亀井宏  講談社 2009年発行

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