
(写真)トランシルヴァニア ヴィスクリー村の要塞教会
2007年1月2日
シギショアラ滞在2日目。
今朝はスッキリ目が覚めて、食欲もあるので早速朝食。
この街に来てから酒を浴びるように飲むは血もしたたる肉料理は食うはで、少々胃がくたびれてきていたので、朝食で新鮮な野菜や果物を食べたかったのだが、残念ながらトマトと缶詰フルーツとチーズが少々並んでいるだけだった。あ~あ。。。
でも、ヨーグルトがおいしいのでまあ良しとする。さすが、ヨーグルトの聖地(と思ってるのは日本人だけかも知れんが)ブルガリアの隣国だけの事はある。
ヨーグルトのお替りを取りにいくと、日本人らしい家族連れの旅行者と目が合った。バルカン半島に入ってから日本人と会うのはこれが最初だ。何となく会釈してから、テーブルに戻りヨーグルトを食べていると、日本人家族の奥さんらしき人がテーブルまでやってきて
「おはようございます。日本人の方でしょう?」と挨拶された。
「ええ、そうです…」
「シギショアラに滞在されているんですか?私たち、今朝4時に列車でこの街に着いたんですよ。今、家族でルーマニアを周っているんです。」
「それはそれは。見たところ小さなお子さんも連れておられるのに大変なハードスケジュールですねぇ」
「今日はどこか見に行かれる予定はあるんですか?」
「ええ、特に予定って程じゃないけど、そこの時計塔の中の博物館を見に行こうかなと。昨日は元旦休館で入れなかったもんで。」
「もしよかったら、私たちと一緒に行動しませんか?ちょうど今からタクシーを呼んで要塞教会を見に行くんですよ」
「いいんですか!?そりゃ有難い。是非ご一緒させて下さい!」
要塞教会とは、トランシルヴァニア地方独特の建築で、文字通り軍事要塞化した教会のことである。東方のオスマン帝国やタタール人との血みどろの抗争が続く中で村を守るべく発達したもので、村に敵軍が押し寄せると教会に立てこもって応戦したという。かつてはトランシルヴァニアだけで600近くの要塞教会があり、現在もその半数近くが残っていると言われるが、特に保存状態がよく美しい7つの教会が世界遺産に登録されている。
しかし、世界遺産に登録されたのはいいがそれらの大半は辺鄙な場所にあり、列車やバスではアクセスできずどうしてもタクシーを使うことになるが、悪名高いルーマニアのぼったくりタクシーを使うのが面倒なので見に行くのを諦めていたのだ。
見たところかなり旅慣れした様子のこの一家と一緒なら、タクシーの交渉もうまくいきそうだ。それにタクシー代も折半になるし。有難く同行させて頂く事にした。
ホテルに頼んで呼んでもらったアウディのミニバンタクシーに乗り込んでいると、ガラ・ディナーで一緒だったギリシャの船長さんに「おはよう!」と日本語で声をかけられる。何でも横浜、神戸、清水、広島に寄港したことがあり簡単な日本語なら解るとのこと。

みんなでタクシーに乗って、まずはシギショアラ近郊のビエルタン要塞教会へと向かう。
車中で簡単に自己紹介し合う。ご一家は滋賀県から来られたそうで、奥さんは元バックパッカーとのこと。道理で旅慣れてるわけだ。
ビエルタンまでは舗装された幹線道路で行けるのであっという間。長閑で小さな村だった。

村の中央に聳え立つ、要塞教会。
3重に城壁を巡らしたその姿はまさしく要塞、城である。闘う教会だ。
日本でも戦国時代に武装して織田信長と戦った寺院が北陸地方にあったなあ、延暦寺だっけ?とか考えながら要塞に登って行くと、あちこちから鶏や犬の声が聞こえてくる。平和だ。
教会内部は残念ながら閉鎖中(改修工事中だったのか、或いは冬季は誰も来ないから閉めてるのかは不明)だったが、堅固な要塞の頂点に本来そこにあるはずのない大聖堂が聳えている様子が不思議と違和感がなくて、美しかった。
ちょうど正午になり、人けのない要塞教会の鐘楼から突然響き始めた鐘の音を聞きながらビエルタンを後にする。

次に立ち寄った村も世界遺産の要塞教会の一つらしいのだが、何故か要塞がない。幹線道路沿いの集落の中に普通の教会の聖堂が建っているだけだ。
タクシーの運ちゃんが通りすがりの集落の住人に何かを聞くと、村人は村の向こうの丘を指差した。見ると丘の上に城跡らしきものが見える。
「あれか!」
さっそく、丘の上を目指してタクシーは走り始めるが、道はすぐに砂利道になり次にぬかるんだ泥道になり、タイヤがスリップして登れない。
「仕方がない。歩きましょうか。」
「そうですね。たまにはハイキングがてら丘に登るのも楽しそうです」しかし、この考えは甘かったのだ。。。

丘の下から見上げると、山上の要塞までつづれ折りの道が続いているのが見える。いや、確かに見えたのだ。
でも、タクシーを停めた場所から暫らく登ると道はどんどん細くなり、やがてなくなってしまった。
「あれ?丘の上まで続いてる道じゃなかったのかな?」
「でも、なだらかそうな斜面だからこのまま登れますよ。行きましょう」
そう、なだらかそうに見えたのだ。
しかし、登山やハイキングなど殆どしなくなってから既に十年以上、「己の体力の限界」と「山道を舐めてはいけないという事」をすっかり忘れていたのである。
「…なだらかな斜面も道がないと結構きついですね」
「………(息があがって無言)」
「ここって本当に世界遺産の教会なの~!?文化遺産じゃなくて世界自然遺産の間違いじゃないの?」
大人たちが苦しんでる中で一人、家族の女の子だけは元気だ。
「この前、小学校の遠足で登った琵琶湖の○○山より楽だよー!」とか無邪気に言いながらさっさと登っていく。
「うう…若さっていいなあ!うらやましい。。。」

息を切らしてどうにか辿り着いた丘の上には、世界遺産の要塞教会が…あれ?
「あの…これってどう見てもただの廃墟じゃないですか?」
「ここはきっとサスキズ村の要塞教会だと思うんですよ。政府観光局のサイトの案内を見ると『高さ7~9mの石造城壁に囲まれて、天守閣も付いています。村の中ではなく、村の近郊に建てられていることが、ほかの要塞との基本的な違いです。』とあるんですが。」
「う~ん、村の外にあるっていう点は一致しますね」
「でも『2000年に修復されました。』とも書いてありますよ」
「どうみても修復されてるようには見えませんね。完全な廃墟だし。」
「下の村に普通の教会があったでしょ?あれのことじゃないのかな」
「どうなのかなあ…??」


結局よくわからなかったが、せっかく苦労して登ってきたのだから廃墟の中を見て歩く。
本当に「朽ち果てた要塞」という感じで、詩心があれば思わず「つわものどもが夢のあと云々」と詠いたくなるような風情だ。
「ここが要塞教会なのか城砦なのかはよくわからないけど、とにかく遥か昔に多くの人があのきつい斜面を登って石を築き上げて砦を作り、ひょっとしたらここで血みどろの闘いを繰り広げたのかもしれないし或いは何事もなかったのかもしれないけれど、今ではすべての記憶が土に還ろうとしている。その事実だけで充分なのかもしれませんね。」

廃墟要塞を後に、一路次なる要塞教会を目指す。
「次に行くのはびっくり村です。」
「びっくり村?」
「本当はヴィスクリー村って言うんですけど、この前NHKの世界遺産の番組でここを取り上げてたんですよ。その時何度聞いても『びっくり村』と言ってるようにしか聞こえなかったもので、面白がってそう呼んでるんです」
びっくり村への道程は少々遠い。しかも途中から幹線道路を離れて舗装されていない道に入っていく。ガタガタのダート道を小一時間ばかり、どことなく阿蘇山の風景に似た原野をロバの引く荷車を追い越したりしながら進む。

ようやく到着したびっくり村ことヴィスクリー村は、小さくてカラフルな民家が肩を寄せ合うように建ち並ぶ可愛い村だった。
村の中は人口より鶏やアヒルの方が数が多そうで、人けがない。
タクシーの運ちゃんが村の観光案内所らしき建物の前にクルマを横付けして、ドアを叩くが応答がない。隣の民家が大音量でロック音楽を聴いているので聞こえないのかも知れないと思い、ドアをノックし続けると若い男女が「え?誰?何か用?」という顔でドアを開けた。

「こんにちは。日本から要塞教会を見に来たんです。」
と伝えると若い男女は顔を見合わせて何やら話し合った後、隣の家に向かって何か叫ぶと音楽がピタッと止んで窓から青年が顔を出した。そのまま何やら話し合っている。
運ちゃんの説明によると
「要塞教会は門に鍵が掛かっているから入れない。門を開けてやりたいんだけど、あいにく鍵は1本しかなくて、今現在誰が鍵を持ってるかよく分からないので今から村のみんなに聞いて来てやるからちょっと待ってろ。」
という状況らしい。
世界遺産の門の鍵を誰が持ってるかよく分からない、というのも何か凄い。
やがて、観光案内所の若い男性がお婆さんを連れて戻ってきた。お婆さんが鍵を持ってたらしい。
すると、同行している滋賀県のご一家の奥さんが「あ!この方、NHKの番組に出てこられた人ですよ!」とのこと。
そのことをお婆さんに伝えると「ああ、この前トーキョーのテレビが取材に来ましたからね」
ちなみにこの会話、僕の質問を滋賀県のご一家のお父さんが英語に翻訳してタクシーの運ちゃんに伝えて(お父さんは英語が堪能です)、それを運ちゃんがルーマニア語に翻訳してお婆さんに伝える、という2段階通訳を通している。慣れない言語間の会話はかなり大変だ。
お婆さんに門の鍵を開けてもらって、さっそく要塞の中に入る。
要塞とはいうものの、このヴィスクリー要塞教会はどことなく優雅で、可愛らしい感じがする。もちろん、教会の周囲はぐるりと分厚い城壁に囲まれているが、威圧感や重苦しさは余りない。

聖堂の前に、人名を刻んだ銘版が掲げられている。
お婆さん→運ちゃん→お父さんの2段階翻訳説明によると、「第1次世界大戦と第2次世界大戦で戦死したこの村の出身者の名を刻んでいる」とのこと。
「英霊顕彰碑か。護国神社みたいなものですね。」(後で調べたところ、第2次大戦後ソ連軍によってシベリアに抑留されて死んだ人の名も刻んでいることがわかった。ルーマニア人も日本人と同じ悲劇を経験しているんだなぁ…)

聖堂の中に入る。小さいけれど、可愛いくていい感じのする空間。巨大なゴシックの大聖堂にはない、人の祈りの温かさを感じる。
「ここにはパイプオルガンがあります。数年前に電気モーターを繋ぎましたけど、それまでは足踏み式でした。鍵盤を見てみますか?」
ええ~!?いいんですか?

聖堂の裏のオルガン室に上がると、オモチャのような小さな可愛い鍵盤。
「オルガンの演奏も聴きたかったなあ」


聖堂の裏手にある鐘楼に登ってみた。
ここは鐘突き堂であると同時に見張り塔だったに違いない。
床板の隙間から数十メートル下の地面が見える回廊から周囲を見ると、ヴィスクリー村の周囲に延々と荒涼としたトランシルヴァニアの大地が続いている。
「あの丘陵の向こうから、いつ突然オスマン帝国軍や韃靼人の軍勢が現れて戦闘が始まるか分からないで日々暮らしていた訳でしょう?…壮絶な日常ですよね。」
鐘楼から下りて、教会に併設した資料館を見せてもらう。
村の生活に関する資料が並ぶ小ぢんまりとした資料館だったが、お婆さんと観光案内所の人の説明で、この村をつくったドイツから開拓移民として移住してきた人たちは、今でもドイツの文化風習を大切に守りながら暮らしていること、それでも1989年のルーマニア革命以降は国外との行き来が自由になったために大部分のドイツ系住民は祖国ドイツに帰ってしまい、現在この村のドイツ系住民は激減していること、それによって空き家になったドイツ系住民の家を不法占拠して住み着くロマ人(ジプシー)が増えて困っていること、さらには残されたドイツ系住民も高齢化が進み教会に来られなくなり、現在この要塞教会は危機的状況を迎えつつあることが分かった。
村の人達の精神の拠り所して何百年も存在し続けたこの教会と村の文化が後世に受け継がれる事を願ってやまないが、そのために異邦人の旅行者に過ぎない僕達に出来ることは何だろう…?
でも僕はこの村と要塞教会にいつかまた来たい。また見たいのだ。その時までこの要塞教会と村が健在であるために僕に出来ることは一体何があるか…?考えなくてはならない。

これまで案内してくれたお婆さんが、自宅を見せてくれるというので喜んでお邪魔させて貰う。
びっくり村の大通り(幅10メートルくらいの未舗装の道路兼広場)に面したお婆さんの自宅は、通りに面した部分は小さいが奥行きが長い。まさにウナギの寝床状態だ。村が戦場になり略奪が始まった時に備え、通りから奥まったところに大切な家財道具を隠した名残りだという。
数十メートルも続く家の奥には逞しい鶏の一家が闊歩している。
「あのオンドリさん、人間より強そう。僕がケンカしたら絶対負けると思う。。。」
「でもお肉は硬くて美味しくなさそうだね」と小学生の女の子。うむむ、確かに。

お婆さんの家の中は、6畳ほどの一間だけ。1つの部屋を寝室にして食堂にしてリビングにして…という感じで生活しているらしい。
「日本の生活と似ていますね。」
部屋の隅に、さっき要塞教会の資料館で見た収納式ベッドと同じものが置いてある。夜になったらこれを引き出して一家で川の字になって寝るらしい。ますます日本と同じだ。
洋服ダンスの中には、色とりどりのルーマニアの民族衣装が収まっている。今でも何か行事があるとみんなこの服を着て教会に集うらしい。
戸棚の中にはイギリスのチャールズ皇太子のスナップ写真が飾ってある。
「チャールズ皇太子が数年前にこの村を訪問して、この部屋を見られたそうですよ。」
お婆さんが嬉しそうに洋服ダンスの奥からチャールズ皇太子が着たという民族衣装を取り出して見せてくれた。
お婆さんと観光案内所のお兄さんお姉さんにお礼を言って、ヴィスクリー村を後にする。
「何だか、夢の中の村みたいでしたね。あんな暮らしが今でも続いているなんて」
小さい頃に読み聴きした、おとぎ話の村。そんな村が、トランシルヴァニアには今でもあった。
しかし今、現実は容赦なくおとぎ話の村を飲み込もうとしている。ルーマニアには今でも300近い要塞教会が現存していると言われるが、その大部分は荒廃したり閉鎖したりしているらしい。高齢化や住民の流出、修復予算不足…
おとぎ話の村は間もなく本当におとぎ話の世界の彼方へと消え去ってしまうのだろうか?
我々に出来ることは、何かないのだろうか…?
シギショアラへと戻り、タクシーの代金を払う。
「え?そんなに安くていいの?」というような良心価格だった。ルーマニアのタクシーはぼったくりの雲助ドライバーばかりだと聞いていたのに、嬉しい誤算。今日一日頑張って案内してくれた運ちゃんにチップを渡して笑顔で別れる。
「ルーマニア人って…何だかいい人だね」
今日一日一緒に行動させてもらった一家と一緒に夕飯を食べる。
ガラ・ディナーの時は飲まなかった赤ワインをオーダーするが、飲みやすくて旨い!
食後、一家と別れた後でレストランの隣のウェイティング・バーで赤ワインを買って、一家の部屋を再訪する。
「こんばんは、今日は色々とお世話になりました。僕は明日の朝4時の列車でイスタンブールに向かいます。これはお礼です、是非飲んでください。それでは、さようなら!」
夜明け前にホテルをチェックアウトした。
カウンターのホテルマンが「さようなら。またシギショアラに来て下さいね!Come back Sighisoara!」と見送ってくれた。
「うん、また来たいよ。シギショアラにも、びっくり村にもね!それに…時計塔の博物館のヘルマン・オーベルト先生のロケットの展示もまだ見てないし。また来るよ、この街へ!」
雪の降り積もり始めた街を後に、首都ブカレスト行きの夜行列車に乗り込む。さようならトランシルヴァニア。おとぎ話の村とバンパネラの故郷。また来るよ!

(つづく)
2007年1月2日
シギショアラ滞在2日目。
今朝はスッキリ目が覚めて、食欲もあるので早速朝食。
この街に来てから酒を浴びるように飲むは血もしたたる肉料理は食うはで、少々胃がくたびれてきていたので、朝食で新鮮な野菜や果物を食べたかったのだが、残念ながらトマトと缶詰フルーツとチーズが少々並んでいるだけだった。あ~あ。。。
でも、ヨーグルトがおいしいのでまあ良しとする。さすが、ヨーグルトの聖地(と思ってるのは日本人だけかも知れんが)ブルガリアの隣国だけの事はある。
ヨーグルトのお替りを取りにいくと、日本人らしい家族連れの旅行者と目が合った。バルカン半島に入ってから日本人と会うのはこれが最初だ。何となく会釈してから、テーブルに戻りヨーグルトを食べていると、日本人家族の奥さんらしき人がテーブルまでやってきて
「おはようございます。日本人の方でしょう?」と挨拶された。
「ええ、そうです…」
「シギショアラに滞在されているんですか?私たち、今朝4時に列車でこの街に着いたんですよ。今、家族でルーマニアを周っているんです。」
「それはそれは。見たところ小さなお子さんも連れておられるのに大変なハードスケジュールですねぇ」
「今日はどこか見に行かれる予定はあるんですか?」
「ええ、特に予定って程じゃないけど、そこの時計塔の中の博物館を見に行こうかなと。昨日は元旦休館で入れなかったもんで。」
「もしよかったら、私たちと一緒に行動しませんか?ちょうど今からタクシーを呼んで要塞教会を見に行くんですよ」
「いいんですか!?そりゃ有難い。是非ご一緒させて下さい!」
要塞教会とは、トランシルヴァニア地方独特の建築で、文字通り軍事要塞化した教会のことである。東方のオスマン帝国やタタール人との血みどろの抗争が続く中で村を守るべく発達したもので、村に敵軍が押し寄せると教会に立てこもって応戦したという。かつてはトランシルヴァニアだけで600近くの要塞教会があり、現在もその半数近くが残っていると言われるが、特に保存状態がよく美しい7つの教会が世界遺産に登録されている。
しかし、世界遺産に登録されたのはいいがそれらの大半は辺鄙な場所にあり、列車やバスではアクセスできずどうしてもタクシーを使うことになるが、悪名高いルーマニアのぼったくりタクシーを使うのが面倒なので見に行くのを諦めていたのだ。
見たところかなり旅慣れした様子のこの一家と一緒なら、タクシーの交渉もうまくいきそうだ。それにタクシー代も折半になるし。有難く同行させて頂く事にした。
ホテルに頼んで呼んでもらったアウディのミニバンタクシーに乗り込んでいると、ガラ・ディナーで一緒だったギリシャの船長さんに「おはよう!」と日本語で声をかけられる。何でも横浜、神戸、清水、広島に寄港したことがあり簡単な日本語なら解るとのこと。

みんなでタクシーに乗って、まずはシギショアラ近郊のビエルタン要塞教会へと向かう。
車中で簡単に自己紹介し合う。ご一家は滋賀県から来られたそうで、奥さんは元バックパッカーとのこと。道理で旅慣れてるわけだ。
ビエルタンまでは舗装された幹線道路で行けるのであっという間。長閑で小さな村だった。

村の中央に聳え立つ、要塞教会。
3重に城壁を巡らしたその姿はまさしく要塞、城である。闘う教会だ。
日本でも戦国時代に武装して織田信長と戦った寺院が北陸地方にあったなあ、延暦寺だっけ?とか考えながら要塞に登って行くと、あちこちから鶏や犬の声が聞こえてくる。平和だ。
教会内部は残念ながら閉鎖中(改修工事中だったのか、或いは冬季は誰も来ないから閉めてるのかは不明)だったが、堅固な要塞の頂点に本来そこにあるはずのない大聖堂が聳えている様子が不思議と違和感がなくて、美しかった。
ちょうど正午になり、人けのない要塞教会の鐘楼から突然響き始めた鐘の音を聞きながらビエルタンを後にする。

次に立ち寄った村も世界遺産の要塞教会の一つらしいのだが、何故か要塞がない。幹線道路沿いの集落の中に普通の教会の聖堂が建っているだけだ。
タクシーの運ちゃんが通りすがりの集落の住人に何かを聞くと、村人は村の向こうの丘を指差した。見ると丘の上に城跡らしきものが見える。
「あれか!」
さっそく、丘の上を目指してタクシーは走り始めるが、道はすぐに砂利道になり次にぬかるんだ泥道になり、タイヤがスリップして登れない。
「仕方がない。歩きましょうか。」
「そうですね。たまにはハイキングがてら丘に登るのも楽しそうです」しかし、この考えは甘かったのだ。。。

丘の下から見上げると、山上の要塞までつづれ折りの道が続いているのが見える。いや、確かに見えたのだ。
でも、タクシーを停めた場所から暫らく登ると道はどんどん細くなり、やがてなくなってしまった。
「あれ?丘の上まで続いてる道じゃなかったのかな?」
「でも、なだらかそうな斜面だからこのまま登れますよ。行きましょう」
そう、なだらかそうに見えたのだ。
しかし、登山やハイキングなど殆どしなくなってから既に十年以上、「己の体力の限界」と「山道を舐めてはいけないという事」をすっかり忘れていたのである。
「…なだらかな斜面も道がないと結構きついですね」
「………(息があがって無言)」
「ここって本当に世界遺産の教会なの~!?文化遺産じゃなくて世界自然遺産の間違いじゃないの?」
大人たちが苦しんでる中で一人、家族の女の子だけは元気だ。
「この前、小学校の遠足で登った琵琶湖の○○山より楽だよー!」とか無邪気に言いながらさっさと登っていく。
「うう…若さっていいなあ!うらやましい。。。」

息を切らしてどうにか辿り着いた丘の上には、世界遺産の要塞教会が…あれ?
「あの…これってどう見てもただの廃墟じゃないですか?」
「ここはきっとサスキズ村の要塞教会だと思うんですよ。政府観光局のサイトの案内を見ると『高さ7~9mの石造城壁に囲まれて、天守閣も付いています。村の中ではなく、村の近郊に建てられていることが、ほかの要塞との基本的な違いです。』とあるんですが。」
「う~ん、村の外にあるっていう点は一致しますね」
「でも『2000年に修復されました。』とも書いてありますよ」
「どうみても修復されてるようには見えませんね。完全な廃墟だし。」
「下の村に普通の教会があったでしょ?あれのことじゃないのかな」
「どうなのかなあ…??」


結局よくわからなかったが、せっかく苦労して登ってきたのだから廃墟の中を見て歩く。
本当に「朽ち果てた要塞」という感じで、詩心があれば思わず「つわものどもが夢のあと云々」と詠いたくなるような風情だ。
「ここが要塞教会なのか城砦なのかはよくわからないけど、とにかく遥か昔に多くの人があのきつい斜面を登って石を築き上げて砦を作り、ひょっとしたらここで血みどろの闘いを繰り広げたのかもしれないし或いは何事もなかったのかもしれないけれど、今ではすべての記憶が土に還ろうとしている。その事実だけで充分なのかもしれませんね。」

廃墟要塞を後に、一路次なる要塞教会を目指す。
「次に行くのはびっくり村です。」
「びっくり村?」
「本当はヴィスクリー村って言うんですけど、この前NHKの世界遺産の番組でここを取り上げてたんですよ。その時何度聞いても『びっくり村』と言ってるようにしか聞こえなかったもので、面白がってそう呼んでるんです」
びっくり村への道程は少々遠い。しかも途中から幹線道路を離れて舗装されていない道に入っていく。ガタガタのダート道を小一時間ばかり、どことなく阿蘇山の風景に似た原野をロバの引く荷車を追い越したりしながら進む。

ようやく到着したびっくり村ことヴィスクリー村は、小さくてカラフルな民家が肩を寄せ合うように建ち並ぶ可愛い村だった。
村の中は人口より鶏やアヒルの方が数が多そうで、人けがない。
タクシーの運ちゃんが村の観光案内所らしき建物の前にクルマを横付けして、ドアを叩くが応答がない。隣の民家が大音量でロック音楽を聴いているので聞こえないのかも知れないと思い、ドアをノックし続けると若い男女が「え?誰?何か用?」という顔でドアを開けた。

「こんにちは。日本から要塞教会を見に来たんです。」
と伝えると若い男女は顔を見合わせて何やら話し合った後、隣の家に向かって何か叫ぶと音楽がピタッと止んで窓から青年が顔を出した。そのまま何やら話し合っている。
運ちゃんの説明によると
「要塞教会は門に鍵が掛かっているから入れない。門を開けてやりたいんだけど、あいにく鍵は1本しかなくて、今現在誰が鍵を持ってるかよく分からないので今から村のみんなに聞いて来てやるからちょっと待ってろ。」
という状況らしい。
世界遺産の門の鍵を誰が持ってるかよく分からない、というのも何か凄い。
やがて、観光案内所の若い男性がお婆さんを連れて戻ってきた。お婆さんが鍵を持ってたらしい。
すると、同行している滋賀県のご一家の奥さんが「あ!この方、NHKの番組に出てこられた人ですよ!」とのこと。
そのことをお婆さんに伝えると「ああ、この前トーキョーのテレビが取材に来ましたからね」
ちなみにこの会話、僕の質問を滋賀県のご一家のお父さんが英語に翻訳してタクシーの運ちゃんに伝えて(お父さんは英語が堪能です)、それを運ちゃんがルーマニア語に翻訳してお婆さんに伝える、という2段階通訳を通している。慣れない言語間の会話はかなり大変だ。
お婆さんに門の鍵を開けてもらって、さっそく要塞の中に入る。
要塞とはいうものの、このヴィスクリー要塞教会はどことなく優雅で、可愛らしい感じがする。もちろん、教会の周囲はぐるりと分厚い城壁に囲まれているが、威圧感や重苦しさは余りない。

聖堂の前に、人名を刻んだ銘版が掲げられている。
お婆さん→運ちゃん→お父さんの2段階翻訳説明によると、「第1次世界大戦と第2次世界大戦で戦死したこの村の出身者の名を刻んでいる」とのこと。
「英霊顕彰碑か。護国神社みたいなものですね。」(後で調べたところ、第2次大戦後ソ連軍によってシベリアに抑留されて死んだ人の名も刻んでいることがわかった。ルーマニア人も日本人と同じ悲劇を経験しているんだなぁ…)

聖堂の中に入る。小さいけれど、可愛いくていい感じのする空間。巨大なゴシックの大聖堂にはない、人の祈りの温かさを感じる。
「ここにはパイプオルガンがあります。数年前に電気モーターを繋ぎましたけど、それまでは足踏み式でした。鍵盤を見てみますか?」
ええ~!?いいんですか?

聖堂の裏のオルガン室に上がると、オモチャのような小さな可愛い鍵盤。
「オルガンの演奏も聴きたかったなあ」


聖堂の裏手にある鐘楼に登ってみた。
ここは鐘突き堂であると同時に見張り塔だったに違いない。
床板の隙間から数十メートル下の地面が見える回廊から周囲を見ると、ヴィスクリー村の周囲に延々と荒涼としたトランシルヴァニアの大地が続いている。
「あの丘陵の向こうから、いつ突然オスマン帝国軍や韃靼人の軍勢が現れて戦闘が始まるか分からないで日々暮らしていた訳でしょう?…壮絶な日常ですよね。」
鐘楼から下りて、教会に併設した資料館を見せてもらう。
村の生活に関する資料が並ぶ小ぢんまりとした資料館だったが、お婆さんと観光案内所の人の説明で、この村をつくったドイツから開拓移民として移住してきた人たちは、今でもドイツの文化風習を大切に守りながら暮らしていること、それでも1989年のルーマニア革命以降は国外との行き来が自由になったために大部分のドイツ系住民は祖国ドイツに帰ってしまい、現在この村のドイツ系住民は激減していること、それによって空き家になったドイツ系住民の家を不法占拠して住み着くロマ人(ジプシー)が増えて困っていること、さらには残されたドイツ系住民も高齢化が進み教会に来られなくなり、現在この要塞教会は危機的状況を迎えつつあることが分かった。
村の人達の精神の拠り所して何百年も存在し続けたこの教会と村の文化が後世に受け継がれる事を願ってやまないが、そのために異邦人の旅行者に過ぎない僕達に出来ることは何だろう…?
でも僕はこの村と要塞教会にいつかまた来たい。また見たいのだ。その時までこの要塞教会と村が健在であるために僕に出来ることは一体何があるか…?考えなくてはならない。

これまで案内してくれたお婆さんが、自宅を見せてくれるというので喜んでお邪魔させて貰う。
びっくり村の大通り(幅10メートルくらいの未舗装の道路兼広場)に面したお婆さんの自宅は、通りに面した部分は小さいが奥行きが長い。まさにウナギの寝床状態だ。村が戦場になり略奪が始まった時に備え、通りから奥まったところに大切な家財道具を隠した名残りだという。
数十メートルも続く家の奥には逞しい鶏の一家が闊歩している。
「あのオンドリさん、人間より強そう。僕がケンカしたら絶対負けると思う。。。」
「でもお肉は硬くて美味しくなさそうだね」と小学生の女の子。うむむ、確かに。

お婆さんの家の中は、6畳ほどの一間だけ。1つの部屋を寝室にして食堂にしてリビングにして…という感じで生活しているらしい。
「日本の生活と似ていますね。」
部屋の隅に、さっき要塞教会の資料館で見た収納式ベッドと同じものが置いてある。夜になったらこれを引き出して一家で川の字になって寝るらしい。ますます日本と同じだ。
洋服ダンスの中には、色とりどりのルーマニアの民族衣装が収まっている。今でも何か行事があるとみんなこの服を着て教会に集うらしい。
戸棚の中にはイギリスのチャールズ皇太子のスナップ写真が飾ってある。
「チャールズ皇太子が数年前にこの村を訪問して、この部屋を見られたそうですよ。」
お婆さんが嬉しそうに洋服ダンスの奥からチャールズ皇太子が着たという民族衣装を取り出して見せてくれた。
お婆さんと観光案内所のお兄さんお姉さんにお礼を言って、ヴィスクリー村を後にする。
「何だか、夢の中の村みたいでしたね。あんな暮らしが今でも続いているなんて」
小さい頃に読み聴きした、おとぎ話の村。そんな村が、トランシルヴァニアには今でもあった。
しかし今、現実は容赦なくおとぎ話の村を飲み込もうとしている。ルーマニアには今でも300近い要塞教会が現存していると言われるが、その大部分は荒廃したり閉鎖したりしているらしい。高齢化や住民の流出、修復予算不足…
おとぎ話の村は間もなく本当におとぎ話の世界の彼方へと消え去ってしまうのだろうか?
我々に出来ることは、何かないのだろうか…?
シギショアラへと戻り、タクシーの代金を払う。
「え?そんなに安くていいの?」というような良心価格だった。ルーマニアのタクシーはぼったくりの雲助ドライバーばかりだと聞いていたのに、嬉しい誤算。今日一日頑張って案内してくれた運ちゃんにチップを渡して笑顔で別れる。
「ルーマニア人って…何だかいい人だね」
今日一日一緒に行動させてもらった一家と一緒に夕飯を食べる。
ガラ・ディナーの時は飲まなかった赤ワインをオーダーするが、飲みやすくて旨い!
食後、一家と別れた後でレストランの隣のウェイティング・バーで赤ワインを買って、一家の部屋を再訪する。
「こんばんは、今日は色々とお世話になりました。僕は明日の朝4時の列車でイスタンブールに向かいます。これはお礼です、是非飲んでください。それでは、さようなら!」
夜明け前にホテルをチェックアウトした。
カウンターのホテルマンが「さようなら。またシギショアラに来て下さいね!Come back Sighisoara!」と見送ってくれた。
「うん、また来たいよ。シギショアラにも、びっくり村にもね!それに…時計塔の博物館のヘルマン・オーベルト先生のロケットの展示もまだ見てないし。また来るよ、この街へ!」
雪の降り積もり始めた街を後に、首都ブカレスト行きの夜行列車に乗り込む。さようならトランシルヴァニア。おとぎ話の村とバンパネラの故郷。また来るよ!

(つづく)
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