今からちょうど100年前の1923年、ドイツの地方都市イエナで生まれた近代的プラネタリウムの始祖「カールツァイスⅠ型」投影機は4900個とも言われる人工の星々を直径16mのドーム内の暗闇に映し出した。この「イエナの驚異」以来プラネタリウムは進化を続け、世界各地へと普及していく。
はじめは電球等の光源から放たれた光が恒星原板やピンホールの穴を通ってドーム天井に星を映し出す「光学式」だった投影機は1980年代頃からCGで再現された星空や映像をプロジェクターを用いて投映する「デジタル式」やフルドーム映像が登場し、「本物に近い人工の星空を昼間でも見る事ができる」というプラネタリウムの姿は大きく変わった。ドームいっぱいに映し出された美しい映像を楽しむエンターテイメント性が加わったのだ。
特に近年ではコンピュータグラフィックス技術の著しい向上に伴い思わず息を呑むような高精細な映像を描き出すことが可能になり、また世界各国で新進気鋭のクリエイター達がプラネタリウムで投映されるフルドーム映像の製作に挑むようになったことで作品の完成度が高まり、芸術作品としても高く評価されるようになっている。
日本でも2009年、翌年の地球帰還を目指して最後の奮闘を続けていた小惑星探査機「はやぶさ」の旅路を情感豊かに描き出したフルドーム映像作品「HAYABUSA -BACK TO THE EARTH-」が大阪市立科学館プラネタリウムで公開され、その完成度の高さと芸術性で極めて高い評価を得て以後のプラネタリウム全天周映像の潮流を決定づける金字塔的作品となった事は周知の通り。
そのHAYABUSAを創り上げた映像クリエーター上坂浩光氏はその後も積極的にフルドーム映像作品の製作を続けられており、「ETERNAL RETURN」「MUSICA」「HORIZON」といったプラネタリウムファンなら一度は観たことがある名作の数々を生み出し続けている。
そんな上坂浩光監督の手掛けた新たな作品「須弥山世界」の投映が2022年からベトナムで始まった。
この作品は仏教の真髄に通ずる古代インドの哲学的世界観を描いたもので、何と仏教のテーマパークの礼拝堂で投映する為に作られたという。現在ベトナムには主に教育用の小規模なプラネタリウムしか存在していないようなので、これはベトナム初の本格的なフルドーム映像を投映するプラネタリウムの誕生と言えるかもしれない。ともあれ、実際に現地で実物を観てみたい。
プラネタリウム誕生百年の夏、最も先端的で特殊な進化を遂げた不思議なプラネタリウムを求めて、ベトナムへ旅に出ることにした。
インドシナ半島の東側、南シナ海に沿って南北1600kmに及ぶ国土を有するベトナム社会主義共和国。
かつてサイゴンと呼ばれた南部の最大都市ホーチミン市は首都ハノイを凌ぐ900万の人口を有し、経済成長著しい市内には高層ビル群の谷間にフランスに侵略され植民地支配された時代の名残りであるコロニアル様式の建築やオペラハウスも混在するエキゾチックな街だ。
先ずは、日本各地の空港から直行便がありアクセスも容易なホーチミン市に飛んで、ここを拠点に上坂監督の「須弥山世界」を投映している仏教テーマパーク「サンワールド バデンマウンテン」を目指すことにしよう。
ホーチミン市街地
2023年8月14日、ベトナムの格安航空会社ベトジェットでホーチミンのタンソンニャット国際空港に到着したのは午後9時、ほぼ定刻に着いたので安堵したのも束の間、入国審査が長蛇の列で1時間以上待たされて結局市内行き路線バスの最終便には間に合わなかった。
ターミナルビルを出ると早速カモを求めて白タクドライバーが群がってくるが、ぼったくりで悪名高いベトナムの流しのタクシーには絶対乗りたくないので定額チケットタクシーのカウンターに向かうもなかなか車が迎えに来ず30分も待たされて、予約していた日系ビジネスホテルにチェックインした時には既に午前零時を回っていた。そのままベッドにぶっ倒れるようにして眠ってしまい、翌朝は朝寝坊してから屋上の露天風呂でゆっくり朝風呂。
…若かった頃は沢木耕太郎の「深夜特急」に憧れてバックパッカー気取りで東南アジアの安宿や夜行列車を渡り歩いたものだが、四十不惑を越えると日本語のサービスや日本式の風呂が有り難い。今日は予備日で特に予定を入れていないので、ホテルから徒歩圏内のホーチミン市美術館で午後まで過ごして日が暮れたらサイゴンオペラハウスへ行って舞台芸術(オペラではなかったが見応えがあった)を鑑賞、真夏のサイゴンの休日で英気を養って「須弥山世界」に備える。
ホーチミン市美術館
サイゴンオペラハウス
8月16日朝7時、予定通りの時間に現地ツアーガイドさんがホテルまで迎えに来てくれた。
「サンワールド バデンマウンテン」はホーチミン市から北西に約100km離れたカンボジア国境に程近いタイニン省というところにあり、ベトナムではかなり人気のある観光地らしいのだが訪れるのは現地のベトナム人が中心で、皆んな自家用車やバイクで行くので外国人が一人で公共交通機関で到達するのはほぼ不可能ということが事前のリサーチで判明したので、やむなく旅行会社の日本語ガイド付き現地ツアーを探し出して予約手配しておいたのだが今日のツアー参加者は私一人だけだった。
日本語が話せるベトナム人のガイドさんに挨拶がてら
「実は私は、テーマパークで投映されているプラネタリウム作品を観るのが目的なのです。テーマパークの観光とかに興味は無いけれどプラネタリウムを何度も繰り返し観たい」
と説明、果たして上手く趣旨が伝わったかは定かではないが私一人のために用意された運転手付きハイヤーに乗って100km彼方のタイニン省へと出発する。
「タイニン省まではまだ高速道路が無いんです。今日は渋滞してるから3時間位かかります。」
とのことだったが、道路が車とバイクで溢れかえっているホーチミン市近郊の住宅地を抜けて郊外に出ると辺り一面の農地と椰子の木が生い茂る中を快調に走って、やがて平原の中にそびえるピラミッドのような山が見えてきた。
標高986mあるというメコンデルタ最高峰の死火山、山頂に「サンワールド バデンマウンテン」があるバデン山だ。
太平洋戦争中には日本軍に占領され、その後ベトナム戦争でも米軍と南ベトナム解放民族戦線の戦場となった過去を持つこの山は現在では信仰と観光の拠点となっており、頂上には仏像のようなものが建っているのも見える。
午前9時半、バデン山の麓の駐車場に到着。
ガイドさんに案内されて「世界最大のロープウェイ駅」としてギネス認定されているという駅からロープウェイに乗る。
ロープウェイはバデン山中腹にある寺院行きと山頂のテーマパーク直行の2本あり、一旦中腹の寺院に行ってから麓に戻って山頂行きに乗り換えますよと説明される。
山頂の「サンワールド バデンマウンテン」は入場料がそれなりに高額な為、ベトナム人の参拝者には中腹の寺院だけ詣って帰る人も多いのでこのようなコースになっているらしい。
チケット売り場には一応英語の表記もあるがルートが分かり難くて、もし自分一人だったら多分迷っただろう。こういう時、現地ガイドさんがいてくれると本当に助かる。
バデン山中腹の寺院はベトナム仏教では重要な寺だそうで、珍しい「座っている観音像」が寺院のご本尊だ。私も帽子を取り裸足になって小さなお堂に入って合掌する。
ベトナム仏教の重要寺院なのにとても小さいお堂と観音像だがベトナムの善男善女は皆、真剣にひれ伏して祈る。ガイドさんも仕事中なのにひれ伏して祈る。
ベトナムは宗教に冷淡とされる社会主義国であるにも関わらず国民の8割が仏教徒だそうで、本当に敬虔な仏教徒が多い事に感心させられる。
バデン山にはホーチミン市をはじめベトナム中から参拝者が来るそうで、ガイドさんによると「今日は平日だけど人が多いでしょ、週末と毎月1日、15日はお祈りの人がもっと多くなるよ」とのこと。カンボジア国境からも近いのでプノンペンから遥々来る人もいるけど、日本人はほとんど来ないそうだ。遠くから巡礼に来る人のために宿坊もあって、高野山にお参りに行った時のことを思い出した。
一旦下山して、改めて頂上へ向かう。
ロープウェイからは地平線の彼方まで広がるメコンデルタの農業地帯が一望でき、素晴らしい眺望だ。輝く水面も見えるがメコン川ではなく貯水池らしい。
バデン山の頂上に到着すると、そこは標高900m以上の山頂とは思えない程きれいに整備された近代的なテーマパークだった。ここが「サンワールド バデンマウンテン」だ。
麓からも見えた巨大な黒い観音立像は全高72mあり、170トンの赤銅で造られているという。
観音像の足元は4階構造の礼拝堂となっており、世界各地から集められた仏像が展示された回廊が取り囲む中心にドームシアターがあってここで「須弥山世界」が投映される。
これは日本人建築家の高松伸氏が手掛けたものでテーマパークの象徴となる建築物だ。
早速、礼拝堂参拝者の行列に並んでドームシアター内部へ。
入り口で靴を覆うカバーをつけて磨き上げられた石の床のドームシアターに入ると、壁面にずらりと並ぶ無数の仏像に圧倒される。
私は仏教の知識が無いので上手く説明出来ないのだが「京都の三十三間堂が円形のプラネタリウムドームになったような空間」と言えば雰囲気が伝わるだろうか?
仏像はドーム内の、プラネタリウムでいうと「南側」に配置されており、座席は無いので観客…いや参拝者は平面の床に直接座り込んで仏像と対面する(つまり南側を向く)かたちで天井を見上げる事になる。
フルドーム映像専用の為かコンソールは見当たらず、ドーム径は20mといったところか。
係員による説明(ベトナム語なので聴き取れなかったが恐らくドーム内が暗くなる事や気分が悪くなった際の対処法を説明したと思われる)の後、いよいよ投映が始まる。
ドームに映し出されたのは最果ての世界、宇宙の大規模構造…やがて銀河団が現れ、天の川銀河に存在する星雲や恒星を巡って太陽系へ、そして地球のインドシナ半島南部、バデン山頂の黒い観音像の足元の礼拝堂へ、つまり今いる場所へと飛び込んでいく宇宙の旅が描き出される。
これは上坂浩光監督の2022年の作品「まだ見ぬ宇宙へ」のバデン山バージョンとも言うべき作品のようで、仏像に見守られながら宇宙の階層構造を旅した参拝者は投映中にも歓声を上げていた。
ガイドさんも「凄い!こんな映像初めて観た。お客さんのトモダチが作ったんでしょ、日本人って凄いね」と興奮気味に語っているが、これは「須弥山世界」ではない。ガイドさんが係員に聞いたところ、やはり「宇宙編」と「須弥山世界」の2作品を交互に投映しているとのことで、「私は3ヶ月前にもここに来たけど、その時は須弥山の作品は観たけど宇宙編はやってなかったよ。新しく投映を始めたんじゃないかな、お客さんラッキーだね!私は外で待ってるから、ゆっくり須弥山の作品を観るといいよ」という訳で改めて石の床に腰を据えて、今度こそ「須弥山世界」を観る!
…ドーム天井一面に曼荼羅イメージが広がり、次の瞬間我々は探査機に乗って海の中にいる。
水面から空へと飛び出すと世界の中心に聳え立つ須弥山が見えてくる。そこは生命に満ち溢れ、さらに新たなる生命を産み出す…溢れ出しほとばしるエネルギーの塊のような水飛沫から、幾つもの神々が生まれる。それはまるで「ETERNAL RETURN -いのちを継ぐもの-」(2012年)で描かれた深海の熱水噴出孔のように生命を育む聖なる場所だ。
やがて須弥山の山頂に辿り着くと、そこに建つ帝釈天の居城・善見城(デザインは高松伸氏によるものだ)は巨大な宇宙戦艦のように機体を展開して全ての生命を救済するべく翔び立つ。
無限の広さの善見城内に控える帝釈天と守護神たち、そして須弥山の更に上空にまで続く天界とそこに住む神々の姿がドームシアター内の無数の仏像と重なり合い、映像とシンクロする
…ドームシアターの設計段階から携わったという上坂監督の狙いが見事に決まった瞬間だ。
古代インド哲学を原点としてその後、仏教をはじめ様々な宗教に取り入れられた世界観の概念としての須弥山世界を、上坂監督は最新の科学に基づく宇宙論の手法で完全に具現化して描き切った。
それは全ての仏教徒、いや全人類が初めて見たリアルな世界としての須弥山世界だ。
哲学的概念だった途方もない世界が今、まるで宇宙探査機によって観測された実際のデータのように生き生きとした姿で目の前に現れたのだ。
仏教における須弥山の大きさを実際のサイズに置き換えると約56万km、その中腹を太陽と月が周回している。
さらに須弥山が載っている世界は高さ約132万km、これがさらに太陽系とほぼ同じ直径の円盤が3つ重なった上に載っている。これが「三千大千世界」で、宇宙には無数に存在するという…それはまるで、無数の銀河が織りなす宇宙の大規模構造そのものではないか!
ここまで考えて、バデン山で「須弥山世界」と「まだ見ぬ宇宙へ」的作品が同時に投映されている理由が解った気がした。
きっと上坂監督は我々に哲学的概念としての宇宙の姿と最新の科学観測と研究により明らかになった実際の宇宙の姿の両方を見せようとしているのだ。
そしてそれらが姿形は違えども驚くほど似ていることを示したかったのだと思う…。
そこには「宇宙の姿を見る人に分かりやすく伝える」というプラネタリウムのあるべき姿が貫かれている。
ここは紛れもなく、ドイツでの誕生から百年目にしてベトナムで究極の進化を遂げたプラネタリウムだった。
その後の投映を3回繰り返し観て、ドームシアターの外に出るとガイドさんが「もう満足した?」と迎えに来てくれた。
「ええ、満足しましたよ…良かった。本当に、ここまで来て良かった!ところでガイドさん、あなたも信心深い仏教徒だよね?仏教徒の目から観て、あの須弥山世界はどうでしたか?」
こう聞くと「私は3ヶ月前に初めて須弥山の作品を観た時、とても驚いたよ。仏教徒から見ても須弥山世界の内容は仏教の教えに正確で、間違っている点は全く無く完璧な作品だった。そして、仏教徒としてとても嬉しかったですよ!」
…この答えを聞いた時、私も本当に嬉しくなった。
「ああ、満足したらなんだかお腹が空いちゃった。ガイドさん、何か美味しいベトナム料理を食べに行きたいな!」
「OK!ホーチミン市に帰る途中で米から作ったライスペーパーで有名な町を通るから、生春巻きを食べて行きましょう」
「やったー!」
生きとし生けるものは幸せであれ。バデン山頂の黒い観音様が微笑んだ気がした。
(※注意:作品の内容説明や感想及び宗教解釈は全て筆者の主観によるものです。制作サイドの意向とは異なる可能性があります。)
◎「須弥山世界」を観に行こう
ベトナム・タイニン省バデン山までの行き方ガイド
最寄りの主要都市はベトナム南部の最大都市ホーチミン市。
同市のタンソンニャット国際空港までは羽田/成田、中部、関西をはじめ日本各地の空港から直行便が飛んでいる。
ハノイをはじめアジアの各都市での乗り継ぎ便も利用できるのでアクセスは容易。
空港からホーチミン市内までは直行の路線バスがあるが、時刻が頻繁に変わるので事前に最新の運行状況を確認しておくこと。
到着が夜遅い場合は定額制チケットタクシーが安心。
運転手がしつこく客引きしてくるタクシーはほぼ間違いなく悪質なぼったくりタクシーなので利用しないこと。
ホーチミン市からタイニン省までは路線バスを乗り継いで行くことも可能らしいが、乗り継ぎが煩雑な事や車内ではベトナム語しか通じない事が予想されるので外国人が利用するのは現実的ではない。
バデン山まで行く日帰り現地ツアーが多数催行されているのでこれを利用した方が便利。
今回は日系の大手旅行会社HISのホーチミン支店から販売されている日本語ガイド付きツアーを利用した。
宿泊ホテルまでの送迎と「サンワールド バデンマウンテン」入場料やロープウェイのチケット代も含めて大人1名で約3万円弱(2023年8月現在の価格。参加人数によっても価格が変わるので旅行会社に確認を)。
※バデン山中腹の寺院及び山頂の「サンワールド バデンマウンテン」はドームシアター内も含め宗教施設なので、くれぐれも節度のある行動を心掛けたい。
「サンワールド バデンマウンテン」公式サイト(英語):https://badenmountain.sunworld.vn/en/
参考資料:飛不動龍光山三高寺正寶院ホームページより「須弥山」
はじめは電球等の光源から放たれた光が恒星原板やピンホールの穴を通ってドーム天井に星を映し出す「光学式」だった投影機は1980年代頃からCGで再現された星空や映像をプロジェクターを用いて投映する「デジタル式」やフルドーム映像が登場し、「本物に近い人工の星空を昼間でも見る事ができる」というプラネタリウムの姿は大きく変わった。ドームいっぱいに映し出された美しい映像を楽しむエンターテイメント性が加わったのだ。
特に近年ではコンピュータグラフィックス技術の著しい向上に伴い思わず息を呑むような高精細な映像を描き出すことが可能になり、また世界各国で新進気鋭のクリエイター達がプラネタリウムで投映されるフルドーム映像の製作に挑むようになったことで作品の完成度が高まり、芸術作品としても高く評価されるようになっている。
日本でも2009年、翌年の地球帰還を目指して最後の奮闘を続けていた小惑星探査機「はやぶさ」の旅路を情感豊かに描き出したフルドーム映像作品「HAYABUSA -BACK TO THE EARTH-」が大阪市立科学館プラネタリウムで公開され、その完成度の高さと芸術性で極めて高い評価を得て以後のプラネタリウム全天周映像の潮流を決定づける金字塔的作品となった事は周知の通り。
そのHAYABUSAを創り上げた映像クリエーター上坂浩光氏はその後も積極的にフルドーム映像作品の製作を続けられており、「ETERNAL RETURN」「MUSICA」「HORIZON」といったプラネタリウムファンなら一度は観たことがある名作の数々を生み出し続けている。
そんな上坂浩光監督の手掛けた新たな作品「須弥山世界」の投映が2022年からベトナムで始まった。
この作品は仏教の真髄に通ずる古代インドの哲学的世界観を描いたもので、何と仏教のテーマパークの礼拝堂で投映する為に作られたという。現在ベトナムには主に教育用の小規模なプラネタリウムしか存在していないようなので、これはベトナム初の本格的なフルドーム映像を投映するプラネタリウムの誕生と言えるかもしれない。ともあれ、実際に現地で実物を観てみたい。
プラネタリウム誕生百年の夏、最も先端的で特殊な進化を遂げた不思議なプラネタリウムを求めて、ベトナムへ旅に出ることにした。
インドシナ半島の東側、南シナ海に沿って南北1600kmに及ぶ国土を有するベトナム社会主義共和国。
かつてサイゴンと呼ばれた南部の最大都市ホーチミン市は首都ハノイを凌ぐ900万の人口を有し、経済成長著しい市内には高層ビル群の谷間にフランスに侵略され植民地支配された時代の名残りであるコロニアル様式の建築やオペラハウスも混在するエキゾチックな街だ。
先ずは、日本各地の空港から直行便がありアクセスも容易なホーチミン市に飛んで、ここを拠点に上坂監督の「須弥山世界」を投映している仏教テーマパーク「サンワールド バデンマウンテン」を目指すことにしよう。
ホーチミン市街地
2023年8月14日、ベトナムの格安航空会社ベトジェットでホーチミンのタンソンニャット国際空港に到着したのは午後9時、ほぼ定刻に着いたので安堵したのも束の間、入国審査が長蛇の列で1時間以上待たされて結局市内行き路線バスの最終便には間に合わなかった。
ターミナルビルを出ると早速カモを求めて白タクドライバーが群がってくるが、ぼったくりで悪名高いベトナムの流しのタクシーには絶対乗りたくないので定額チケットタクシーのカウンターに向かうもなかなか車が迎えに来ず30分も待たされて、予約していた日系ビジネスホテルにチェックインした時には既に午前零時を回っていた。そのままベッドにぶっ倒れるようにして眠ってしまい、翌朝は朝寝坊してから屋上の露天風呂でゆっくり朝風呂。
…若かった頃は沢木耕太郎の「深夜特急」に憧れてバックパッカー気取りで東南アジアの安宿や夜行列車を渡り歩いたものだが、四十不惑を越えると日本語のサービスや日本式の風呂が有り難い。今日は予備日で特に予定を入れていないので、ホテルから徒歩圏内のホーチミン市美術館で午後まで過ごして日が暮れたらサイゴンオペラハウスへ行って舞台芸術(オペラではなかったが見応えがあった)を鑑賞、真夏のサイゴンの休日で英気を養って「須弥山世界」に備える。
ホーチミン市美術館
サイゴンオペラハウス
8月16日朝7時、予定通りの時間に現地ツアーガイドさんがホテルまで迎えに来てくれた。
「サンワールド バデンマウンテン」はホーチミン市から北西に約100km離れたカンボジア国境に程近いタイニン省というところにあり、ベトナムではかなり人気のある観光地らしいのだが訪れるのは現地のベトナム人が中心で、皆んな自家用車やバイクで行くので外国人が一人で公共交通機関で到達するのはほぼ不可能ということが事前のリサーチで判明したので、やむなく旅行会社の日本語ガイド付き現地ツアーを探し出して予約手配しておいたのだが今日のツアー参加者は私一人だけだった。
日本語が話せるベトナム人のガイドさんに挨拶がてら
「実は私は、テーマパークで投映されているプラネタリウム作品を観るのが目的なのです。テーマパークの観光とかに興味は無いけれどプラネタリウムを何度も繰り返し観たい」
と説明、果たして上手く趣旨が伝わったかは定かではないが私一人のために用意された運転手付きハイヤーに乗って100km彼方のタイニン省へと出発する。
「タイニン省まではまだ高速道路が無いんです。今日は渋滞してるから3時間位かかります。」
とのことだったが、道路が車とバイクで溢れかえっているホーチミン市近郊の住宅地を抜けて郊外に出ると辺り一面の農地と椰子の木が生い茂る中を快調に走って、やがて平原の中にそびえるピラミッドのような山が見えてきた。
標高986mあるというメコンデルタ最高峰の死火山、山頂に「サンワールド バデンマウンテン」があるバデン山だ。
太平洋戦争中には日本軍に占領され、その後ベトナム戦争でも米軍と南ベトナム解放民族戦線の戦場となった過去を持つこの山は現在では信仰と観光の拠点となっており、頂上には仏像のようなものが建っているのも見える。
午前9時半、バデン山の麓の駐車場に到着。
ガイドさんに案内されて「世界最大のロープウェイ駅」としてギネス認定されているという駅からロープウェイに乗る。
ロープウェイはバデン山中腹にある寺院行きと山頂のテーマパーク直行の2本あり、一旦中腹の寺院に行ってから麓に戻って山頂行きに乗り換えますよと説明される。
山頂の「サンワールド バデンマウンテン」は入場料がそれなりに高額な為、ベトナム人の参拝者には中腹の寺院だけ詣って帰る人も多いのでこのようなコースになっているらしい。
チケット売り場には一応英語の表記もあるがルートが分かり難くて、もし自分一人だったら多分迷っただろう。こういう時、現地ガイドさんがいてくれると本当に助かる。
バデン山中腹の寺院はベトナム仏教では重要な寺だそうで、珍しい「座っている観音像」が寺院のご本尊だ。私も帽子を取り裸足になって小さなお堂に入って合掌する。
ベトナム仏教の重要寺院なのにとても小さいお堂と観音像だがベトナムの善男善女は皆、真剣にひれ伏して祈る。ガイドさんも仕事中なのにひれ伏して祈る。
ベトナムは宗教に冷淡とされる社会主義国であるにも関わらず国民の8割が仏教徒だそうで、本当に敬虔な仏教徒が多い事に感心させられる。
バデン山にはホーチミン市をはじめベトナム中から参拝者が来るそうで、ガイドさんによると「今日は平日だけど人が多いでしょ、週末と毎月1日、15日はお祈りの人がもっと多くなるよ」とのこと。カンボジア国境からも近いのでプノンペンから遥々来る人もいるけど、日本人はほとんど来ないそうだ。遠くから巡礼に来る人のために宿坊もあって、高野山にお参りに行った時のことを思い出した。
一旦下山して、改めて頂上へ向かう。
ロープウェイからは地平線の彼方まで広がるメコンデルタの農業地帯が一望でき、素晴らしい眺望だ。輝く水面も見えるがメコン川ではなく貯水池らしい。
バデン山の頂上に到着すると、そこは標高900m以上の山頂とは思えない程きれいに整備された近代的なテーマパークだった。ここが「サンワールド バデンマウンテン」だ。
麓からも見えた巨大な黒い観音立像は全高72mあり、170トンの赤銅で造られているという。
観音像の足元は4階構造の礼拝堂となっており、世界各地から集められた仏像が展示された回廊が取り囲む中心にドームシアターがあってここで「須弥山世界」が投映される。
これは日本人建築家の高松伸氏が手掛けたものでテーマパークの象徴となる建築物だ。
早速、礼拝堂参拝者の行列に並んでドームシアター内部へ。
入り口で靴を覆うカバーをつけて磨き上げられた石の床のドームシアターに入ると、壁面にずらりと並ぶ無数の仏像に圧倒される。
私は仏教の知識が無いので上手く説明出来ないのだが「京都の三十三間堂が円形のプラネタリウムドームになったような空間」と言えば雰囲気が伝わるだろうか?
仏像はドーム内の、プラネタリウムでいうと「南側」に配置されており、座席は無いので観客…いや参拝者は平面の床に直接座り込んで仏像と対面する(つまり南側を向く)かたちで天井を見上げる事になる。
フルドーム映像専用の為かコンソールは見当たらず、ドーム径は20mといったところか。
係員による説明(ベトナム語なので聴き取れなかったが恐らくドーム内が暗くなる事や気分が悪くなった際の対処法を説明したと思われる)の後、いよいよ投映が始まる。
ドームに映し出されたのは最果ての世界、宇宙の大規模構造…やがて銀河団が現れ、天の川銀河に存在する星雲や恒星を巡って太陽系へ、そして地球のインドシナ半島南部、バデン山頂の黒い観音像の足元の礼拝堂へ、つまり今いる場所へと飛び込んでいく宇宙の旅が描き出される。
これは上坂浩光監督の2022年の作品「まだ見ぬ宇宙へ」のバデン山バージョンとも言うべき作品のようで、仏像に見守られながら宇宙の階層構造を旅した参拝者は投映中にも歓声を上げていた。
ガイドさんも「凄い!こんな映像初めて観た。お客さんのトモダチが作ったんでしょ、日本人って凄いね」と興奮気味に語っているが、これは「須弥山世界」ではない。ガイドさんが係員に聞いたところ、やはり「宇宙編」と「須弥山世界」の2作品を交互に投映しているとのことで、「私は3ヶ月前にもここに来たけど、その時は須弥山の作品は観たけど宇宙編はやってなかったよ。新しく投映を始めたんじゃないかな、お客さんラッキーだね!私は外で待ってるから、ゆっくり須弥山の作品を観るといいよ」という訳で改めて石の床に腰を据えて、今度こそ「須弥山世界」を観る!
…ドーム天井一面に曼荼羅イメージが広がり、次の瞬間我々は探査機に乗って海の中にいる。
水面から空へと飛び出すと世界の中心に聳え立つ須弥山が見えてくる。そこは生命に満ち溢れ、さらに新たなる生命を産み出す…溢れ出しほとばしるエネルギーの塊のような水飛沫から、幾つもの神々が生まれる。それはまるで「ETERNAL RETURN -いのちを継ぐもの-」(2012年)で描かれた深海の熱水噴出孔のように生命を育む聖なる場所だ。
やがて須弥山の山頂に辿り着くと、そこに建つ帝釈天の居城・善見城(デザインは高松伸氏によるものだ)は巨大な宇宙戦艦のように機体を展開して全ての生命を救済するべく翔び立つ。
無限の広さの善見城内に控える帝釈天と守護神たち、そして須弥山の更に上空にまで続く天界とそこに住む神々の姿がドームシアター内の無数の仏像と重なり合い、映像とシンクロする
…ドームシアターの設計段階から携わったという上坂監督の狙いが見事に決まった瞬間だ。
古代インド哲学を原点としてその後、仏教をはじめ様々な宗教に取り入れられた世界観の概念としての須弥山世界を、上坂監督は最新の科学に基づく宇宙論の手法で完全に具現化して描き切った。
それは全ての仏教徒、いや全人類が初めて見たリアルな世界としての須弥山世界だ。
哲学的概念だった途方もない世界が今、まるで宇宙探査機によって観測された実際のデータのように生き生きとした姿で目の前に現れたのだ。
仏教における須弥山の大きさを実際のサイズに置き換えると約56万km、その中腹を太陽と月が周回している。
さらに須弥山が載っている世界は高さ約132万km、これがさらに太陽系とほぼ同じ直径の円盤が3つ重なった上に載っている。これが「三千大千世界」で、宇宙には無数に存在するという…それはまるで、無数の銀河が織りなす宇宙の大規模構造そのものではないか!
ここまで考えて、バデン山で「須弥山世界」と「まだ見ぬ宇宙へ」的作品が同時に投映されている理由が解った気がした。
きっと上坂監督は我々に哲学的概念としての宇宙の姿と最新の科学観測と研究により明らかになった実際の宇宙の姿の両方を見せようとしているのだ。
そしてそれらが姿形は違えども驚くほど似ていることを示したかったのだと思う…。
そこには「宇宙の姿を見る人に分かりやすく伝える」というプラネタリウムのあるべき姿が貫かれている。
ここは紛れもなく、ドイツでの誕生から百年目にしてベトナムで究極の進化を遂げたプラネタリウムだった。
その後の投映を3回繰り返し観て、ドームシアターの外に出るとガイドさんが「もう満足した?」と迎えに来てくれた。
「ええ、満足しましたよ…良かった。本当に、ここまで来て良かった!ところでガイドさん、あなたも信心深い仏教徒だよね?仏教徒の目から観て、あの須弥山世界はどうでしたか?」
こう聞くと「私は3ヶ月前に初めて須弥山の作品を観た時、とても驚いたよ。仏教徒から見ても須弥山世界の内容は仏教の教えに正確で、間違っている点は全く無く完璧な作品だった。そして、仏教徒としてとても嬉しかったですよ!」
…この答えを聞いた時、私も本当に嬉しくなった。
「ああ、満足したらなんだかお腹が空いちゃった。ガイドさん、何か美味しいベトナム料理を食べに行きたいな!」
「OK!ホーチミン市に帰る途中で米から作ったライスペーパーで有名な町を通るから、生春巻きを食べて行きましょう」
「やったー!」
生きとし生けるものは幸せであれ。バデン山頂の黒い観音様が微笑んだ気がした。
(※注意:作品の内容説明や感想及び宗教解釈は全て筆者の主観によるものです。制作サイドの意向とは異なる可能性があります。)
◎「須弥山世界」を観に行こう
ベトナム・タイニン省バデン山までの行き方ガイド
最寄りの主要都市はベトナム南部の最大都市ホーチミン市。
同市のタンソンニャット国際空港までは羽田/成田、中部、関西をはじめ日本各地の空港から直行便が飛んでいる。
ハノイをはじめアジアの各都市での乗り継ぎ便も利用できるのでアクセスは容易。
空港からホーチミン市内までは直行の路線バスがあるが、時刻が頻繁に変わるので事前に最新の運行状況を確認しておくこと。
到着が夜遅い場合は定額制チケットタクシーが安心。
運転手がしつこく客引きしてくるタクシーはほぼ間違いなく悪質なぼったくりタクシーなので利用しないこと。
ホーチミン市からタイニン省までは路線バスを乗り継いで行くことも可能らしいが、乗り継ぎが煩雑な事や車内ではベトナム語しか通じない事が予想されるので外国人が利用するのは現実的ではない。
バデン山まで行く日帰り現地ツアーが多数催行されているのでこれを利用した方が便利。
今回は日系の大手旅行会社HISのホーチミン支店から販売されている日本語ガイド付きツアーを利用した。
宿泊ホテルまでの送迎と「サンワールド バデンマウンテン」入場料やロープウェイのチケット代も含めて大人1名で約3万円弱(2023年8月現在の価格。参加人数によっても価格が変わるので旅行会社に確認を)。
※バデン山中腹の寺院及び山頂の「サンワールド バデンマウンテン」はドームシアター内も含め宗教施設なので、くれぐれも節度のある行動を心掛けたい。
「サンワールド バデンマウンテン」公式サイト(英語):https://badenmountain.sunworld.vn/en/
参考資料:飛不動龍光山三高寺正寶院ホームページより「須弥山」