平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



 
畠山重忠(1164~1205)
の館は、秩父氏一族の畠山重能(しげよし)が
武蔵国男衾(おぶすま)郡畠山郷(現、埼玉県深谷市畠山)を本拠とし、
居館を構えたのが始まりとされています。

現在、その付近一帯が「畠山重忠公史跡公園」として整備され、
重忠の銅像や重忠とその家臣の五輪塔、重忠産湯の井戸などがあります。

荒川に架かる長い重忠橋を渡ると
あたり一面、長閑な田園風景が広がっています。





公園を入った所には、昭和63年に建てられた重忠の銅像があります。
愛馬「三日月」をいたわろうと鵯越の崖を背負って下りたという
『源平盛衰記』の話を描いた重忠の勇姿です。
重忠の豪力と優しい人柄からこのような話が創作されたと思われます。



畠山重忠公の墓  所在地 大里郡川本町大字畠山
鎌倉時代の関東武士を代表する武将である畠山重忠公は、
長寛2年(1164年)秩父庄司重能(しげよし)の二男として、
現在のこの地の畠山館に生まれ幼名を氏王丸と言い、
後に畠山庄司(しょうじ)次郎重忠となった。
剛勇にして文武両道にすぐれ、源頼朝に仕えて礼節の誉れ高く
県北一帯の支配のみならず、伊勢国沼田御厨(三重県)
奥州葛岡(岩手県)の地頭職を兼ね、鎌倉武士の鑑として
尊敬されてきたが、頼朝なきあと北条氏に謀られて、
元久2年(1205年)6月22日に二俣川にて一族とともに討たれた。
時に重忠42歳、子重秀は23歳であった。この畠山館跡には、
重忠公主従の墓として6基の五輪塔がある。

また、館跡には嘉元2年(1304年)の紀年号がある
百回忌供養の板石塔婆、芭蕉句碑や畑和(元埼玉県知事)作詞による
重忠節の歌碑などがあり、館の東北方には重忠産湯の井戸などもあって、
通称「重忠様」と呼ばれて慕われ、現在はこの地一帯が
重忠公史跡公園として整備されている。 平成11年9月 埼玉県

重忠の墓は高さ約2㍍の五輪石塔で、重忠が北条時政父子の謀略により、
二俣川(横浜市)で討たれた時につけていた八幡座(兜の頂上にある穴を飾る金物)を
埋めて造られたものという。(県指定史跡)

木曽義仲が多太神社に奉納した斎藤実盛の遺品と伝えられている兜
八幡座は矢印のところです



 江戸中期の『新編武蔵風土記稿』によると、宝暦13年(1763)に
満福寺の僧が重忠の墓を満福寺に移したと記されていますが、
明治17年に現在地に戻されています。



右側の板石塔婆(いたいしとうば)は、板碑ともいい中世に建てられた供養塔の一種で、
仏教の諸尊を梵字(ぼんじ)一文字で表した種子 (しゅじ) 、
キリークなどと呼ばれる古代インドのサンスクリット語の文字や
供養者、造立年月日、趣旨などが彫ってあります。




 椎の木の根元に重能の墓という自然石があります。



畠山重忠顕彰碑

畠山氏が秩父にいた頃、先祖の墓地にあった伽羅の木です。



碑に刻まれた文字は摩滅し読み取れません。

「畠山重忠公産湯ノ井戸 
 秩父より進出してきた、秩父荘司重能は
武蔵国男衾郡畠山村(現、大里郡川本町畠山)に館を構えました。
のちの長寛二(西暦一一六四)年、秩父荘司重能と相模の豪族・
三浦大介義明の娘眞鶴姫との間に二男として重忠が誕生し、
その際用いた井戸として【重忠公産湯ノ井戸】と称され伝えられております。
又、この井戸は、江戸時代の記録に残された、
古井戸二ヶ所のうちの一つでもあります。
 平成十六(西暦二00四)年十一月吉日建立
 畠山重忠公史跡保存会」説明碑より

重忠は平治の乱の5年後、平家全盛時代の長寛2年(1164)に
この畠山に生まれ、後に菅谷(すがや)館に移っています。

清盛が三十三間堂を建立し、平家納経を厳島神社に寄進したのも
重忠が生まれた年の事です。

畠山重能
桓武平氏の流れをくむ秩父氏は平安時代中期頃から
現在の秩父市一帯を本拠として秩父盆地を開いた豪族です。
重能は秩父重弘の長男で畠山を氏とし畠山庄司と称し、妻は相模の豪族三浦介義明、
姉妹の夫が下総(千葉県)の豪族千葉介常胤と、ともに源義朝の家人でした。
両者が名のる介(すけ)は、朝廷が任命する国司の二等官の「介」ではなく、
在庁官人の地位を示しています。

重能の叔父の秩父重隆は、婿の源義賢(義朝の弟)と組み
さらなる勢力拡大を図りましたが、義平(義朝の長子)が大蔵館を急襲した
大蔵合戦で敗れ、義賢とともに戦死しました。
重能はこの時、義平率いる軍勢に属していました。これは当時、秩父一族の
庶流である秩父重隆が家督を継ぎ、武蔵国総検校職(そうけんぎょうしょく)を
掌握していることに嫡流である重能が不満を持っていたためと見られています。
こうして義朝は、秩父一族はじめ武蔵の武士団をその配下に入れることに成功しました。

『源平盛衰記』によると、義平は後難を恐れ、重能に義賢の子の駒王丸(義仲)を
探し出し殺害するよう命じましたが、重能は2歳の幼子を殺すのは不憫だと、
斎藤実盛に密かに託し、実盛が母に抱かれた駒王丸を木曾へ連れていったという。


平治の乱後、武蔵国が平家の知行国となると、重能はその家人となり20年余が過ぎました。

治承4年(1180)頼朝が挙兵した時、重能は弟の小山田有重や宇都宮朝綱とともに
大番役のために在京中でしたが、頼朝に縁のある者として
帰国を許されず、平家の北陸遠征軍に従い戦っています。

大番役とは諸国の武士が京都に滞在し、三年間宮廷警護などの役にあたったものを
いいますが、地方分離を防ぐ懐柔策のひとつで危急の時には人質にもなります。

次いで平家都落ちの時、東国では畠山重能、小山田有重、宇都宮朝綱の一族が
源氏に寝返ったため、一門の中に三人を斬捨てるべしという声がありましたが、
知盛(清盛の4男)は彼らを故郷に帰すよう宗盛を説得したという。
『吾妻鏡』文治元年(118577日の条によると、
宇都宮朝綱と姻戚関係にあった平貞能(さだよし)が
宗盛に口添えをして、この三人を助けたとしています。


『源平盛衰記』によると、平家一門の都落ち際、畠山重能・小山田有重・
宇都宮朝綱は淀までお供して下りました。宗盛は三人を近くに召し寄せ、
「何処までも伴いたいけれども、汝らの子息・家人は皆東国に在って頼朝に従っている。
ぬけがらだけを供に連れていくこともあるまい。早く故郷へ帰れ。」といわれ、
「長い間御恩を賜って妻子を養ってきました。今更妻子が恋しいと
帰るわけにはいきません。落ち着かれる所までお供します。」というと
「親の子を思う心は、身分の上下に関係なく皆同じである。
子は東国にいて源氏に従い、親は西海に下って身を滅ぼすことは不憫である。
すぐに帰って頼朝に従うがよい。」と暇をとらせました。
三人にとって平家は長年の主であるので名残を惜しみつつ、
涙ながらに別れを告げました。
これ以後、重能は歴史の表舞台から姿を消しています。
重忠に家督を譲って隠居し、頼朝には仕えなかったものと思われます。
畠山重忠の菩提寺(満福寺)  
畠山重忠館跡(菅谷館跡)  
『アクセス』
「畠山重忠公史跡公園」深谷市畠山510-2
秩父鉄道「永田駅」下車 南東方面に進み、重忠橋を渡り徒歩約20分。
駐車場は、公園北側入り口付近にあります。
毎年4月には、重忠まつりが開催されます。
『参考資料』
「新定源平盛衰記(4)(5)」新人物往来社、1994年 1991年 
現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館、2008年

新潮日本古典集成「平家物語(中)」新潮社、昭和60年 
「郷土資料事典 埼玉県」ゼンリン、1997年
貫達人「人物叢書 畠山重忠」吉川弘文館、昭和62年 
「埼玉県の歴史散歩」山川出版社、1997年
成迫政則「郷土の英雄 武蔵武士(下)」まつやま書房、2005年
安田元久「武蔵の武士団 その成立と故地をさぐる」有隣新書、平成8年 
上杉和彦「源頼朝と鎌倉幕府」新日本出版社、2003年

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
武将としては才能がなかったかもしれませんが (yukariko)
2017-06-29 22:29:18
やはり平氏の方が人間味があると思ってしまいますね。
その分、修羅場の戦などでは弱いのかも。

この記事の最後のところなど…平家一門の都落ち際、畠山重能たちは淀までお供したが、宗盛は暇をとらせた…平家の家人となって20年の重能は重忠に家督を譲って隠居し、頼朝には仕えなかった…ところなどじんときます。
 
 
 
平家の重恩 (sakura)
2017-06-30 10:19:55
都にいた畠山重能は頼朝が挙兵したため、身柄を拘束され、
そのまま平家の家人として木曽義仲軍と戦うことになりました。

石川県と富山県の境にある倶利伽羅峠で敗れた平家は、
加賀国に入り篠原に陣を布きます。
この篠原合戦では、重能は義仲軍と郎党が少なくなるまで戦っています。
貫達人氏は「負戦となって重能は戦線を離脱する良い機会であったのに、
脱出していない。」と述べておられます。

また以後、重能の弟小山田有重や宇都宮朝綱は『吾妻鏡』に
記事が載せられていますが、重能に関する記事はありません。

このことから同氏は、重能は平家の味方として頼朝から重用されなかったのか、
それとも重能が頼朝には仕えなかったのではと推測されています。

 
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