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お尋ねします! (yukariko)
2017-11-15 21:28:53
比企能員(よしかず)の娘讃岐局は、比企の乱で命を失ったと思われ(中略)若狭局が家宝を抱いて身を投げた…前回こうお書きでしたね?
そして讃岐局と若狭局は同一人物とも思われます…と。

それなのにこの伝承地の記事で若狭局(頼家の側室)が東松山市に移り住み草庵を結んだ…というのはおかしくありませんか?
頼家の死後の一時に母の比企尼の隠棲地に移っていたという事でしょうか?
 
 
 
Re:お尋ねします! (sakura)
2017-11-16 09:00:55
比企尼の記事でも書かせていただきましたが、正確な比企氏の系図は残っていません。

このため、『新編相模風土記稿』の「比企能員の娘讃岐局は、
最初若狭局という」に従って讃岐局と若狭局は同一人物として受け入れられ、
妙本寺の伝承は発展しています。

しかし、田端泰子氏は、「能員の娘若狭局はおそらく命は助けられたのであろう。
能員の別の娘讃岐局は、比企の乱の時に命を失ったと
思われる。」と推測なさっています。(乳母の力)

「甦る比企一族」によると、比企の乱後、若狭局に従って
鎌倉からこの地に逃れてきたと伝えられる宮永氏の
ご子孫が今も続いているそうです。
周れませんでしたが、辺りにはこの他にも比企氏にまつわる伝承地があります。

伝承(伝説)を読み解くのは難しいです。

 
 
 
それならよく分かります。 (yukariko)
2017-11-16 13:11:54
比企尼の生んだ娘「若狭局」が母ゆえに助けられ、局に従った一族の生き残りが尼の隠棲地に身を寄せ、後世までその地に住みついた。…という事ですね。
この時代、戦力としての息子以外に嫁、婿として繋がりを作る為にも娘が幾人かいるのも大事だったでしょうから。
詳しい伝承のお話、ありがとうございました。
 
 
 
複雑になって申し訳ないのですが (sakura)
2017-11-17 12:33:11
どこまでが史実で、どこからが伝説なのか。

比丘尼山の説明板には、「この地に移り住んだ若狭局が先に庵を結んでいた
比企尼に諭され頼家の形見の櫛を捨て、思いを断つようにいわれた」と書かれています。
そうすると、比企尼は頼家死後も生きていたことになりますね。
比企尼は建久4年(1193)範頼が自害させられた時、その遺児が尼の嘆願で
助命されていますから、建久4年まで生きていたと思われます。

比企の乱は建仁3年(1203)9月のことです。
当初比企尼の邸だった比企ヶ谷は、事件当時、比企一族の邸が
建ち並んでいたそうですから、すでに尼は亡くなっていたのではと勝手に推測しています。

これはインターネットからの情報ですが、
「比企一族の歴史 郷土学部B班 - 東松山市」によると、
若狭局が頼家の命日に形見の櫛を沼に投げ入れたというのは、伝承であり、
実際には若狭局は一族と共に焼き殺されている。
可能性があるとすれば、頼家正室の辻殿(公暁の母)であろうか。と書かれています。

伝承には辻褄のあわないところや、後世の人が無理やりこじつけたものもありますが、
昔の人がそう信じて伝えてきているのですからそれはそれでいいのだと思っています。
 
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