平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



長泉寺は山号を宗福山といい、曹洞宗(禅宗)の寺です。本尊は釈迦如来で、
開山は寛永11年(1634)に没した格雲守存(かくうんしゅそん)です。

かつてここには、渋谷氏の菩提寺と伝えられる
祖師山(そしざん)菩提寺という寺があり、金王丸の山とよばれる
背後の山には、渋谷金王丸(こんのうまる)の墓があるといわれています。

ご住職のお話によると、「昔はこの寺の裏山に金王丸のものと伝えられる墓があり、
満州事変(昭和6年)の頃、先々代の住職がこの墓を掘ったら甕に入った
人骨らしきものが出てきたので本堂に保管している。
綾瀬市教育委員会の当寺の金属製の説明板もあったが、
不届き者に壊され今はない。」とのことでした。

『長後誌史』には、金王丸(高重)は和田義盛の乱で義盛に与したため、
北条氏に攻められて討死し、その首は綾瀬市早川の
長泉寺境内に葬られたとの伝承を記しています。

『相模武士』より転載。墓碑の周囲には玉石が敷いてあり、
 市史だよりの説明には、大正から昭和初期にかけて撮影されたとあります















平治の乱で敗れた源義朝が東国めざして敗走した時、最後に残った悪源太義平以下
八騎の中に金王丸はいました。青墓宿の東を流れる杭瀬川を下り、
重代の家人長田忠致(ただむね)を頼って尾張の知多半島の先端、
野間内海にたった四人で辿りついた時も金王丸は義朝に従っていました。

義朝は舅にあたる熱田大宮司家を頼りたかったのでしょうが、
すでに東海道の道筋は平家の手が回っていると考えられます。
海へ出れば道が開けるというわけです。忠致は義朝の乳母子鎌田正清(政家)の
舅でもあったので義朝もここならばひとまず安心と気を許したのでしょう。
ところが、忠致は「ここで東国に逃がしたとて誰かに討たれるであろう。
人の手柄にするくらいならば、我々の手柄にしてたんまり恩賞をいただこう。」と
息子の景致(かげむね)と諮り、義朝を湯殿に誘い謀殺しました。
義朝の最後の言葉は「正清は候はぬか。金王丸はなきか」の一声だったといいます。
そのころ、忠致に酒を勧められ問われるままに、軍(いくさ)の様(平治の乱)を
語っていた正清は、義兄弟の景致に騙し討ちにされました。
金王丸は郎党らを討ち取り、主君の訃報を伝えるため急いで都に馳せかえり、
その後出家して全国を行脚し義朝の菩提を弔ったと『平治物語』は語っています。

この物語は琵琶法師などによってくり返し語られたり、
他の芸能の素材に使われたりして
民衆の中で永く生き続けた結果、新たな伝承や異説を生みだし、
その内容も諸本によってかなりの異同があります。

江戸時代になると、金王八幡宮の周辺にはさまざまな伝説が生まれ、
各地に金王丸にまつわる伝承や史跡が数多く残っています。

渋谷金王丸が長森城(現、岐阜県岐阜市切通)を築城し、
羽島市の寺田山渋谷院西方寺は、渋谷金王丸の三男祐俊が
親鸞に帰依し西円と号して以降、
それまでの天台宗から真宗に改めたとしています。

藤沢市下土棚字渋谷の里の善然寺は、渋谷金王丸誕生の地とし、
その守り本尊を今に伝えているとしています。

三重県鈴鹿市にあった光勝寺には金王松があり、そこから関町までの四里の道は
義朝が殺された野間内海から金王丸が都へ引き返した道とされ
金王道といわれていたという。

「今日、金王丸の墓をいわれるものが綾瀬市早川の、徳治2年(1307)の銘のある
板碑を筆頭に、静岡県引佐(いなさ)郡引佐町、愛知県、滋賀県、
岡山県、長野県と数えあげられる。金王丸が渋谷氏の出身とする伝承に従えば
綾瀬市早川のものは当然としても、他の各地に点在する墓は義朝の死を語り歩いた
自称金王丸たちの足跡を示していると思われなくもない。」
(『平治物語の成立と展開』)

『平家物語』の中で、俊寛の童有王は鬼界が島へ渡り、島で主人の死を見とったのち、
俊寛の娘にこれを知らせに帰ります。その後、高野山で出家し、
諸国七道修行をしつつ主の後世を弔いました。

水原一氏は「有王の語り部の公式というものが金王丸の上にも見られ、金王丸は
義朝最期の物語を語った語り部の一人であった。」と言いきっておられます。
(『保元・平治物語の世界』)

「九州地方を中心に長門・四国・北陸などに俊寛の墓と伝える遺跡が
数多くあり
伝説の内容は少しずつ異なるが、鬼界が島の俊寛の話が
各地に伝えられているという。それは一人では
とても残しきれない数なので、有王と名のる語り手が複数存在し
旅の先々で多くの人々に俊寛の最期を語り歩いた。」
柳田國男『有王と俊寛僧都』)
それが金王丸にも見られるというのです。
金王八幡宮(源義朝の童渋谷金王丸)
『アクセス』
「長泉寺」綾瀬市早川3146 相鉄海老名駅から徒歩約20分

『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年
日下力「平治物語の成立と展開」汲古書院、1997年 
日下力「古典講読シリーズ 平治物語」岩波書店、1992年
水原一「保元・平治物語の世界」日本放送出版協会、昭和54年
湯山学「相模武士(5)糟屋党・渋谷党」戎光祥出版、2012年
「柳田國男全集(9)」(物語と語り物)ちくま文庫、1990年

 



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