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左手に見えるのは、JR熊谷駅北口ロータリー広場に建つ熊谷次郎直実のブロンズ像。
北口から朝日バス「太田駅行・西小泉駅行」または「妻沼(めぬま)行」に乗車。
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「井殿橋」停下車 西へ約400m(福川沿いに進みます)
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埼玉県大里郡妻沼町西野村(現、熊谷市西野)は、利根川右岸の氾濫原
(河川の氾濫によって形成)に位置し、北部を福川が東流しています。
この地は斎藤実盛のゆかりの地で、福川右岸の古くから堀の内と称され
実盛館跡と伝えられる地に実盛塚があります。
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熊谷市指定文化財
一、種別 史跡
一、名称 斎藤氏館跡実盛塚
一、指定年月日 昭和五十二年九月十三日
福川の河川改修等により形状が変わっているが古代長井庄の
中心的な位置にあたり水堀の跡や出土品のほか、古くから
「この辺、堀内という所は長井庄の首邑にて実盛の邸跡なり」との伝承や、
長昌寺の椎樹にまつわる口碑その他史実などからして大正15年3月
埼玉県指定史蹟「斎藤実盛館跡実盛塚」として指定されたが、
何時の日か誤って「史蹟実盛碑」となったため
昭和38年に県指定史蹟を解除された。 中央に残る板碑は、
実盛の孫である長井馬入道実家が死去しその子某が
建てた供養塔である。 熊谷市教育委員会 実盛館跡史跡保存会
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実盛塚には板碑が建っています。
板碑とは、中世に多く使われていた板状の石で造った卒塔婆です。
13C前半(鎌倉時代)に発生し17C(江戸時代)に入ると消滅します。
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正嘉(しょうか)元年(1257)
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「長井庄斎藤別当実盛館阯」側面には「大正十五年十月十五日建之」と彫られています。
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斎藤 実盛(?~1183)は斎藤実直(さねなお)の子で、
祖父実遠(さねとお)の猶子となりました。越前国の出身で、
後に武蔵国長井庄(埼玉県熊谷市)に移住し源為義・義朝父子に仕え、
久寿2年(1155)の大蔵合戦で悪源太義平(義朝の長子)が
おじの源義賢(よしかた=義朝の弟)を討った際、義平から義賢の遺児
駒王丸(義仲)の殺害を命じられますが、幼子を殺すに忍びず、
木曽の豪族中原兼遠にその身柄を預けました。
平治の乱(1160)では、義朝軍に加わり、待賢門の戦いで
義平麾下(きか)十七騎の一として奮戦しました。
東国に敗走する途中、義朝は琵琶湖畔の瀬田で郎党らに暇を出し、
実盛は長井庄へ帰り、義朝の没後は平宗盛に仕えることになりました。
やがて源頼朝が挙兵し、武蔵武士の多くが頼朝に帰属しましたが、
一旦の恩義を思って態度を変えず平家に属しました。その後、
木曽義仲追討軍に参加、越前篠原の戦いで死を覚悟していた実盛は、
錦の直垂を着け髪を黒く染めて一人踏みとどまり、壮烈な最期を遂げました。
実盛は荘園を管理し武蔵国に住むとはいえ、もとは越前国の生まれ、
「故郷には錦を着て帰れ」ということわざ通リ、平宗盛から錦の着用を特別に許され、
大将軍かと見まがうばかりの赤い錦の直垂を着て戦場に現れたのでした。
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『平家物語絵巻 実盛最期の事』より転載。
床几に座る義仲に手塚太郎光盛(首の右)が首を差し出し、
実盛と旧知の樋口兼光(首の左)が、その首を実盛と確認した場面です。
かつて実盛が一命を助けた義仲(駒王丸)が挙兵し、
実盛は義仲と敵味方に別れて戦うことになりました。
駒王丸を助けて28年後のことです。
倶利伽羅峠で大勝利した義仲は加賀篠原で再び平家軍と戦い、
平家はここでも惨敗を喫しました。平家一門みな敗走する中を
とっては返して戦う武者がいました。
義仲勢の中から手塚太郎が進み出て奮戦の末、
その首を討ち取り、義仲の陣中に運びました。
むざんやな甲の下のきりぎりす(小松市多太神社)
木曾義仲が奉納した斉藤別当実盛の兜が残る多太神社。
篠原古戦場(首洗池・実盛塚)
『アクセス』
「斎藤実盛館跡実盛塚」埼玉県熊谷市西野
『参考資料』
「埼玉県の地名」平凡社、1993年 「埼玉大百科事典」埼玉新聞社、昭和50年
「埼玉県の歴史散歩」山川出版社、1997年 林原美術館「平家物語絵巻」クレオ、1998年
日下力「いくさ物語の世界 中世軍記文学を読む」岩波新書、2008年
関幸彦編「武蔵武士団」吉川弘文館、2014年 「平家物語を知る事典」東京堂出版、2006年
その間に義仲の旧跡も西行、芭蕉の旅の句碑の残る土地も、義仲寺さえも何度も訪ねました。
詳しく知らなければ通り一遍の感想でしょうが、紹介してくださった、後世にも連綿と続く、實盛を追慕する人たちの句、物語、能や芝居にはやはり胸を突かれます。
それにしても實盛が言い付け通りに駒王丸(義仲)を殺害していたら後の時代はどう変わったのでしょうか。
人の心とは不思議なものですね。
斎藤実盛は平家の旗色が悪くなっても、態度を変えず忠誠を尽くしました。
篠原合戦では、名のることなく敵と渡り合い
武士としてのプライドを死守した老将実盛に義仲や
手塚、樋口らも感銘を受けています。
斎藤実盛の最期の様子は、「平家物語・巻7・実盛最期」に描かれ、
死にゆく者が抱いたであろう万感の思い、
凄まじい生き様や貫いた信念の強さからは語らぬ思いがうかがえます。
その潔い最期は、畏敬の念すらもって語り継がれていますね。