平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



以仁(もちひと)王の令旨が諸国の源氏蜂起の引き金となり、治承4年(1180)8月、
頼朝が伊豆で挙兵すると、ほどなく木曽義仲も立ち上がりました。
義仲が北陸道に進軍する前、頼朝軍が上野(群馬県)と信濃(長野県)境の
峠を越え、信濃国で両者は一触即発の事態となりましたが、
義仲が嫡男清水冠者義高を頼朝の許に遣わすことで和解が図られました。

寿永2年(1183)7月、義仲は源氏勢の中で最初に都に入りましたが、
やがて後白河院と対立して義仲追討の院宣が出され、
鎌倉勢に攻撃され生涯を終えました。
義高は頼朝の娘大姫の許嫁として迎えられていましたが、
父が頼朝に討たれると、鎌倉を逃亡し頼朝の放った追手堀親家の郎従藤内光澄に
入間河原で追いつかれ悲運の生涯を終えたと『吾妻鏡』に記されています。

鎌倉から北上し、鎌倉街道を町田、府中、所沢を経て
ここまで逃れてきた義高の心情が哀れです。

昔、「八丁の渡し」と呼ばれる浅瀬があり、この渡しは鎌倉街道が
入間川を渡るところにあったといわれています。
渡しといっても渡し舟ではなく、浅瀬を徒歩で渡ったのです。
義高は「八丁の渡し」にさしかかったところで討たれ、
「八丁の渡し」が義高終焉の地と推定されています。

『新編武蔵国風土記稿』によると、入間川右岸の入間川村(現、狭山市入間川1~4、
富士見1~2など)は、中世、鎌倉街道上道(かみつみち)が通り、
子(ね)ノ神で入間川を渡河していたという。


また『広報さやま』によると、「八丁の渡し」は、
市内に二ヵ所あるとされ、一つは、子(ね)ノ神を下り、
本富士見橋周辺の中島辺、もう一つは下流の奥富の前田、
入間川堤防に建つ九頭龍大権現の石仏辺から柏原へ渡る浅瀬です。

そこで子之神社前の坂から入間川へ下ります。






 
入間川右岸  手前の道は、入間川に沿って走るサイクリングロードです。

近くの歩道橋から眺めた「八丁の渡し」があった辺り



国道16号線から新富士見橋を渡って1㎞ほど行くと奥州道という交差点に出ます。



新富士見橋側道橋
晴れた冬の寒い日には、この橋から富士山がよく見えるそうです。

八丁の渡りがあった辺の河川敷の風景を眺めながら橋を渡ります。





奥州道交差点の坂を少し上った傍らにある影隠(かげかくし)地蔵は、
頼朝の追手に追われた義高が、道端の地蔵尊の背後に身を潜め、
難を逃れようとしたといわれています。

ゆるやかな坂を上っていくと、木陰の中に赤い帽子とよだれかけが見えてきます。

『新編武蔵国風土記稿』によると、この石の地蔵は、
現在地より入間川よりの上広瀬側の地蔵堂に木像の地蔵としてあったという。

「影隠地蔵 市指定文化財 史跡
 所在地 狭山市柏原二0四-一 指定年月日 昭和五十二年九月一日
 この地蔵尊が影隠地蔵と呼ばれるのは、清水冠者義高が追手(おって)に
追われる身となったとき、難を避ける目的で、
一時的にその姿を隠したためといわれています。
義高は源義仲(木曽義仲)の嫡男で、義仲が源頼朝と対立していた際、
和睦のために人質として差し出され、頼朝の娘である大姫と結婚しました。
政略結婚とはいえ二人は幼いながらも大変仲がよかったと伝えられています。
その後、義仲と頼朝は再び対立し、後白河法皇の命を受けた頼朝は、
弟範頼・義経の軍に義仲の討伐を命じ、義仲は敗れて討たれました。
義高は我が身に難が及ぶのを避けるため、大姫のはからいで鎌倉からのがれ、
父義仲の出生地でもあり関係の深かかった畠山重能の住む現在の比企郡嵐山町か、
生まれ故郷である信濃国(長野県)へ向いました。
しかし、頼朝は将来の禍根(かこん)を恐れ、娘婿の義高に追手を放ちました。
命を狙われた義高は元暦(げんりゃく)元年(一一八四)四月、
この入間川の地まできたときに、追手の堀藤次親家らに追いつかれ、
一度はこの地蔵尊の陰で難をのがれたものの、ついには捕えられ、
藤内光澄に斬られたといわれています。地蔵尊はかつて木像で地蔵堂があり、
その中に安置されていました。道路の拡張により現在の場所へ
移動していますが、過去にも入間川の氾濫で幾度か場所が移動していると思われます。
また、石の地蔵尊になったのは明治七年(一八七四)のことで、
明治政府がとった廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により
木像の地蔵が処分されたためと考えられています。不明な部分もありますが、
義高の悲劇をあわれんだ村人が建てたともいわれているなど、
変わり行く時代の中でも影隠地蔵はその歴史を後世に伝えています。
 (清和源氏略系図・桓武平氏略系図は省略しました)
 平成二十四年三月 狭山市教育委員会 狭山市文化財保護審議会」(現地説明板より)

影隠地蔵前に建つ石橋供養塔には、
四面に「南江戸、東川越、北小川、西八王子」と刻まれ道標となっています。

「歴史の道  鎌倉街道(かまくらかいどう)
 鎌倉幕府の成立とともに整備されたといわれる中世の道「鎌倉街道」は、
武蔵武士を代表する畠山重忠をはじめ新田義貞等多くの武将たちが、
その栄枯盛衰の物語を踏みつけた道として、また、さまざまな文化の
交流の場として利用され、狭山市の歴史の展開に大きな役割を果たした道です。
 狭山市内を通過する鎌倉街道の伝承路は、児玉方面(群馬県藤岡方面)に向かう
通称「上道」があり、上道の本道(入間川道)と分かれた鎌倉街道には、
堀兼神社前を通る道があります。このほか、「秩父道」などと
呼ばれる間道や脇道もあります。
また、逆に「信濃街道」 「奥州道」といった
鎌倉から他国への行き先を示した呼び方もあります。
 狭山市」

鎌倉を脱出した義高はいったい何処へ逃げるつもりだったのでしょう。
鎌倉街道をこのまま進めば、武蔵嵐山までは30㎞ほどの距離です。

埼玉県比企郡嵐山町では、義高の母は山吹とし、同町の班渓寺(はんけいじ)は、
山吹がわが子義高の菩提を弔うために建立したとしています。
境内には山吹姫の墓もありますが、同寺に残る山吹の位牌やその戒名
「威徳院殿班渓妙虎大姉」の形式が江戸期のものであることから、
山吹がこの地で亡くなったという伝承は、近世以降に創造されたものと思われます。

頼朝と義仲は従兄弟にあたります。
義仲の父義賢(よしかた)は義平(義朝の子)と勢力争いの末、
武蔵大蔵館で合戦に敗れて討死し、
2歳の駒王丸(義仲)は、畠山重能や斎藤実盛に助けられ、
中原兼遠を頼って木曽に逃れ、そこで養育されます。

嵐山町に縁があるのは、義高の父木曽義仲や祖父の源義賢です。

義高が鎌倉街道上道を北上したのは、入間川の先には、義仲と最後まで
行動をともにした多胡家兼の本拠地上野国(群馬県)多胡庄があるので、
そこまで逃げれば義仲の旧臣がかくまってくれると考えたのであろう。
(『源頼政と木曽義仲』)
ちなみに義仲の父義賢(よしかた)は、一時多胡館に住み、
義仲は挙兵後、父の旧領である多胡郡を訪れています。

義高と大姫の悲話は、御伽草子『清水冠者物語』の
題材となり、広く知られるようになりました。
この物語では、義高は奥州藤原氏を頼って落ちる途中、那須野ヶ原で
追手に捕えられ、鎌倉の小坪の浜で処刑されたことになっています。

清水冠者の「清水」の由来は、義高の乳母の出身地と伝わる
善光寺近くの箱清水、それに義高生誕地とも伝えられる
松本市丸子町の「正海清水」などと推測されています。

「歴史の道」の説明板横には、信濃坂と記された木標がたち、
この坂が義高の故郷信濃に続く道であることを物語っています。

義仲の残党が甲斐・信濃等に隠れ、謀反を企てているとの情報があり
頼朝は甲斐、信濃国に大規模な軍兵の派遣を命じ、残る残党を一掃しました。
『アクセス』
「影隠地蔵」埼玉県狭山市柏原69付近
狭山市駅西口から西武バス「奥州道」下車徒歩1分
「子(ね)之神社」狭山市入間川3丁目24番付近
『参考資料』
「埼玉県の地名」平凡社、1993年 「木曽義仲のすべて」新人物往来社、2008年
現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館、2008年
伊藤悦子「木曽義仲に出会う旅」新典社、2012年  
永井晋「源頼政と木曽義仲」中公新書、2015年





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コメント
 
 
 
清水冠者義高は歴史に翻弄された若者の一人。 (Unknown)
2017-08-02 18:13:19
源氏の中でも別流の旗頭の嫡男に生まれ、人質生活の挙句、追われて討たれた悲劇の主人公ですが、大姫の生涯をかけての純愛に読者は胸を打たれて、勲功も何もなく一生を終わった若者の名を覚えるのですね。
 
 
 
そうですね (sakura)
2017-08-04 10:24:43
義高は狭山市の入間河原で追手に追いつかれ、僅か12歳で命を落としましたが、
お伽草子「清水冠者物語」では、義高は栃木県の那須野まで逃げています。

このため栃木県には、清水冠者伝説が数多くあり、
益子町では大姫が清水冠者の跡を追って、ここで尼となったと伝えられています。
この町には、大姫が姿をうつした 「鏡ヶ井戸」や大姫が
涙に濡れた顔を洗ったという「涙川」なども残ってますし、
長野県小諸には、鎌倉からこの地まで逃れてきた義高が追手に殺され、
その時の血しぶきで赤くそまったという「山鳥ススキ」の伝説もあります。

影隠地蔵も義高伝説のひとつなのでしょうが、
このように伝説が多いということは、後世の人々が義高や大姫に同情し、
義高の死を惜しんだということでしょうね。

 
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